あなたの「いい音楽」は何ですか?2007年04月09日 22時32分12秒

音楽について語ると言う事で、先手必勝w
シリーズ◇音楽について思うこと。 国民宿舎はらぺこ 大浴場さま)へtb!


4番目の題目についての私なりの考え方です。



曰く。

音楽作品の良し悪しの基準は聴き手個人の価値観の問題であって、音楽自体に絶対的な優劣があるわけではないとする考え方がある。それはどこまで真実なのか?
これは私の持論そのものであり、場合によっては名指しなのかも知れないと内心ヒヤヒヤw

まず最初に私の音楽に対する持論を述べますと。

個人が音楽に対して言えるのは、「好き」か「嫌い」かだけである

というものです。
音楽作品に対していろいろな人が、この曲はいい、この曲は良くない、といったように評価を下していきます。
それは千差万別なものであり、それが元で喧嘩になったり議論がヒートアップしたり、もっと悪いときには荒らし行為に発展したりします。
何故このように、同じ音楽に対してこうも評価がバラバラになってしまうのか?

その答えを出す前に、ちょっと遊んでみましょう。
下の画像を見てください。赤っぽいのとちょっとピンクっぽい2色です。

どっちが胸キュン?

さて、どっちが赤いですか?

多分多くの人が左側の方が赤いと答えるでしょう。



じゃあ。
どっちがいい色ですか?

今度は自分の中で思い思いの考えを巡らせ、どちらかを指差すでしょう。
では。
自分の考え方が普遍的なものだと断言できますか?それを説明できますか?

誰も説明出来ません。

この2つの質問のポイント、「赤い」事と「いい」事。
両者の決定的な違い。
明確な判断基準が確立されているか否か

「赤い」事はRGBの値で決められている事です。
対して「いい」かどうかについては、万人共通の判断基準は存在しないのでどちらが「いい」かは一義的には決められず、個人個人でバラバラの結果となります。
そもそも「いい」「悪い」が何を言いたいのかも明確に説明できないですし。



それを踏まえて聞いてみます。

J.S.Bachの「トッカータとフーガ」。
オレンジレンジの「ロコローション」。

どっちが「いい曲」ですか?



結果は言うに及ばず、ですね。


このように音楽作品に対して「いい」か「悪い」かというものは、明確な判断基準が存在し得ないがゆえに結論付けられません。

もっとも、それが全てのパラメータというわけではありません。
音楽的に「正しいか」「間違ってるか」という事は判断する事が可能です。
「音楽的に正しい事=音楽理論に適合している事=楽典に従っている」と言えるでしょう。突っ込みヨロ。
となれば、音楽理論が花開いた時代の曲であれば、厳格なまでに理論通りの音楽であり、「音楽的に正しい」と言えるでしょう。

しかし「音楽的に正しい=いい」という事は言えません

こう考えると、普段我々が「この曲はいい」「この曲は良くない」と言っているのは、個人的な判断基準によるものでしかない、という事になります。
私はその判断基準を「好き」「嫌い」という言葉で置き換えています。


さてここで改めて最初の問題提議に答えます。

・音楽作品の良し悪しの基準は聴き手個人の価値観の問題か?

その通り。
良し悪し―――「いい」か「悪い」か、というパラメータは、そもそもそれ自体が個人的な判断基準によるものである。よって結果も個人的なもの、個人的な価値観にしか成り得ない。
(ただし「音楽的に正しいか否か」のような、普遍的な判断基準が確立されれば話は別)


・音楽自体に絶対的な優劣があるわけではないか?

分からない。
そもそも音楽の優劣と言うのはどのような判断基準なのかが明確ではない。
明確ではない、万人に同意が得られていない基準では、一義的な判断は出来ない。


何故同じ音楽作品に対する評価がバラバラになってしまうのか?

みんながみんな勝手な(=個人的な)判断基準でしか評価できないから。

ってとこで。
補則すれば、明確な判断基準足りうるためには、普遍性に加えて定量性が必要かと思います。
簡単に言うと、例えば「この曲は100点満点で○○点」という判断が出来る事。さらにはいつ誰が評価しても同じ結果が出るような再現性も必要です。
評価の相関性も必要ですし・・・バリデーションでもしないといけないですかねw
逆の視点から見れば、そういった要求事項を満たせない判断基準は、所詮個人的な価値観に過ぎないと言う事です。

さらに補足すると、音楽作品に対する評価は個人の価値観から脱せないのかというと、「絶対ではない」です。
前述の通り、万人が同意しうる普遍的な判断基準が示されれば可能です。
ただ実際問題としてそんな判断基準が確立とは到底思えないのもまた然り。



前カラムで「音楽作品に対して個人が下す「いい」「悪い」という評価は、個人的な価値観に他ならない」と出ました。
これについては、反論の余地がないというよりは、実際問題としてそう考えざるを得ない、という方がいいでしょう。
少なくとも「日本の」音楽シーンは、これを否定したら成り立たないからです。

仮に、音楽作品に対する評価が万人共通の基準によって評価されているとしましょうか。
ということは、その時々に売られている作品の中で、一番「いい」ものがおのずと決まります。
CDの値段と言うのはほとんど一律です。

値段は一緒で順位付けが明確に決まっている。
となれば、その時一番いい作品だけが売れて、他のものは売れないという話になってしまいます。
でも実際はそうじゃない
みんなが「いい」と思う作品が適度にバラけているからです。
それにもし、音楽作品に対する評価が一義的に決まるならば、音楽と言う分野は進化を止めてしまったと同じ事です。



ここで断っておきます。
音楽作品に対する評価は個人の価値観によってバラバラではありますが、音楽作品をより「いい」ものにしようとする事が無意味だとは言いません

確かに。
価値観なんてのは個人でバラバラです。評価もまたバラバラです。聴き手としては
しかし作り手としては、それでも自分の作品をより良くしていくものです。誰だってそうでしょう。
どうやって「良く」していくかはまたバラバラですが、それを「どうせ個人の価値観がバラバラなんだから」といって止めてしまうのは、自分の音楽の進化を止めてしまっている事です。

はっきり言って、永久に答えは出ません。
それでも、上を目指して行かないといけない。それを止めてしまったらそれ以上の進化は無いから。
極まる事の無い終着点に向かっていく事。
それに悲観して作品造りを止めてしまうのは、悲しい事だけど否定はしません。
しかし同時に、永久に究極を追い求める事が、その分野の進化のドライビングフォースであるとも言っておきましょう。

諦めたらそこで演奏終了ですよ?



もう一つ。

「音楽作品の評価は個人の価値観」ではありますが、
評価は価値観の問題だから話し合ってもしょうがない」と考えてしまうのもまた違う。

評価と言うか価値観全般の問題ですが。
価値観なんてのは、とてもいい加減で流動的です。
環境やそのとき得た情報、果てはその日の気分でどうとでも変化します。

もちろん。
他の価値観を知ったときにも、変化します

他の人と音楽に対する話をして、同じ作品に対する評価を聞いてみること、或いは自分の知らない作品を教えてもらう事、そうする事で自分の音楽に対する価値観は常に流動的に変化していきます。
それは、他人の価値観を知る事により、自分の価値観の幅が広がると言う事です。
そうやって「楽しみ」を増やしていく事
これも音楽に対するあり方の一つだと思います。

クラシックこそ本物で他は邪道、と言って憚らない人も、例えばロックなんかを聴いてみると、新しい世界が開けます。
もちろん聴いても変わらない人もいますが、それもそれで価値観です。否定はしません。

大事なのは他人の価値観を無下に否定しない事。これは音楽に限らず食い物の味でもそうですが。
否定をせず、聞く事。その上で自分が思ったことを確かめればいい。
議論自体は構わないけど、自分の価値観の決め付けや押し付けを前提としたものは、敢えてそれを楽しんでいる以外は、意味が薄いでしょうね。
その人がいいと思えるならば、クラシックでもロックでも演歌でもアニソンでもラップでも、何でも本物です。

音楽作品に貴賤無し。



総括。

音楽作品に対して、個人で評価出来るのは個人の価値観内にしかならない。

個人的な価値観の問題なので、自分が気に入った音楽作品について、周りの評価がどうあれ、自分の一番大事にすべきである。
もっとも他人の下す評価を聞く事も重要であり、それを持って更なる自己の価値観の向上につなげる姿勢も大事である。

価値観の問題なので、音楽作品に対する評価が分かれたとしても、それを無意味に否定する事は望ましくない。議論によって価値観の共有から止揚へとつなげる方が望ましい。


というところです。
この他にも、コマーシャルによる誘導とかコミュニティ内の価値観の方向性の整列力なんかも関係するのですが、ややこしいのでいずれ。
ただこの段階で少しだけ触れると、音楽作品に対する考え方と言うのは、音楽外の価値観によっても多大な影響を受けてしまう、と言う事が言えます。だからこそ総合的な価値観の問題になってくるのですが・・・

ご意見お待ちしております。

原子間距離が適切であって初めて共有結合が成立する2007年03月24日 10時37分14秒

マイミク読み逃げ釣り事件が思わぬ方向に派生。

コミュニケーション疲労と心の距離国民宿舎はらぺこ 大浴場さま)へtb。

大雑把に主旨を示せば、

いわゆる「読み逃げ」を許さない風潮、仲間に対して異質さを寛容できない事というのは、即ち「心の距離が近い」状態と言える。
距離が近いがゆえに相手に同質であることを強要してしまう、即ち「個」はつぶされコミュニティ全体主義が第一に考えられる。
こんな状態でのコミュニケーションは疲れてしまうし、本当の意味での信頼関係などは全く築けていない。

相手との「心の距離」を適切に取る事によって、相手の異質さ、「個」を尊重する事が出来、結果としてコミュニケーションが円滑になる。
即ち重要なのは相手の「個」を受け入れ、信頼する事だ。
相手の事を受容し信頼する事が出来てこそ、自分の意見を堂々と言えるし、相手の意見も聞くことが出来る。
ってところ。多分。

まあ、特に反論もないし概ね受容できる意見です。
ただtb先記事を読んで勘違いする人がいて欲しくは無いのだがいないとも限らないので、補足しとこ。



キーワードは「心の距離」だが、元記事での記述がちょっと引っかかる。

心の距離をとる = 相手の行動を許す
わざと曲解すれば、
「心の距離が近い」→「相手に自分と同じ事を求めてしまう」
「心の距離が遠い」→「相手の事がどーでもよくなる
となる。

相手を受け入れる事が重要なのはもちろん変わりない、が、何でもかんでも相手の行動を受容、いや、スルーしてしまうのが正しい事だと勘違いしてしまいかねない。
いないとは思うけどさ。

この「受容」(≒スルー?)は、していいこととしちゃいけないことがある

元記事の例で言うと、

・待ち合わせの時間に一人が遅刻
・一人だけ音楽の趣味が違った
がある。

前者に関しては、文句を言いながらも「まあしょうがないか」で済む。或いは対案を即座に考えて次の行動に備えるのがたぶん正解。ぶつぶつ文句を言いながら何も考えずにいるのは一番間違い、というかうざい。
後者に関しては、相手の尊重しつつも自分の意見を持っていれば、特に問題は起こらないはず。盲目的に好きなアーティストについてはつい感情的になってしまうこともあろうが・・・

この2つのケースについては、特に問題にはならない。事後の問題として十分受容しうるから。

問題は、受容できない、しちゃいけないケースまでスルーしてしまうことだ。
それは社会通念の事である。もっと言えば、 常識の問題。

以下の2例。

・友達に貸した金がなかなか返ってこない
・酒を飲んでいるのに車を運転しようとしている

金銭貸借は重要な問題、それを「友達だからなあなあでいいよな」といい加減に扱うのはもっての外。
こういうケースで悩んでいる人も結構いるのでは?
当然ながら、借りた金は返すのが当然だし、返済に関しては最優先するのが当然のマナー。
それを難癖付けて返済を引き延ばしたり返さなかったり逆切れしたり横井英樹みたいな真似をされては、その人の良識を疑うし信頼関係の成立も難しい。
金の問題に関しては、友達だからと言ってあいまいにせず、きちんと文書にし、返済計画を確立させた方がよいでしょう。後でもめる事ほどくだらない事は無い。

また飲酒運転について。
これはもう、ぶん殴ってでも止めろと思います。
その人と友人関係を続ける気があるならば、それは絶対にスルーしてはいけない。
特に交友を続ける気が無いならば、一刻も早く絶縁する事をお勧めします。飲酒運転に罪悪感が無いような輩と付き合っててもロクな事は無いでしょう。

この2例で言えることは、最低限の常識の有無ですが、これは信頼関係の確立に影響します。
金を返さないようなのとか、平気で飲酒運転するような奴を信頼できますか?
普通は出来ませんわな。
相手を受容することも重要ではありますが、相手が受容するに値するかどうかを見極める事も重要ですし、友達関係を続けるならば、相手の絶対的に悪いところは周りが治してやることも必要です。
ちゃんと意見できる事が本当の友達だと思いますので。

親しき仲にも礼儀あり、とはよく言ったもんです。



コミュニケーションツールが一気に増えて、コミュニケーションのあり方が問われる今だからこそ、この問題を考える意義は大きいでしょう。
発端は釣りだったけど、問題提議って意味では良かったのかな?

mixi読み逃げが非難されるのは、寂しさの裏返しって側面もあるでしょうが、そこは相手を信頼するように努めた方がいいのでしょうかね。

もっとも、「信頼関係があるからこのぐらいしても大丈夫だよな」というのは単なる甘えですが。

親しき仲にも礼儀あり、です。

ブランドと消費者意識2007年01月15日 23時50分51秒

TVCMなどでもさかんにジェネリック医薬品の宣伝をしています。
曰く、

同じ成分で同じ効き目、そして安い
桃太郎侍も頑張ってます。
しかし実際にはジェネリック処方数は伸び悩んでいるようですね。
そんなジェネリック医薬品について、今後どうすべきか?と言う事について考えて見ました。

まだまだ続く?ジェネリック医薬品の問題薬局のオモテとウラさま)からのtbです。



まずジェネリック医薬品とは何かということですが、手前味噌で恐縮ですが、この辺で触れていますので参考にしてください。

ジェネリック医薬品って何物?

大雑把に言えば、特許が切れたから今度は安く提供できますよ、と言う事です。

上っ面だけ見ればジェネリック薬品は安いし効き目も同じだから、いい事尽くめのように聞こえますね。
しかし、ここにジェネリック医薬品への不理解が見え隠れします。

前述記事にもありますが、ジェネリックが安い理由は 開発コストが少ない 厚生労働省への申請に必要なデータの一部についき省略可能なため、その部分のコストが安くなる。
医薬品のコストの大部分は開発コストなので、そこを一部省略できる事は非常に大きなコストダウンになる。
からです。
これは同じ有効成分である事の恩恵でしょう。
しかし、これも前述ですが、同じなのは 有効成分 それも、同じ化合物を目標に造ったというレベルの話です。
詳しくは ここ で。
だけ
です。
その他の部分は違います。
なのに同じ効き目と言い切ってしまうのはどうでしょう。
ここは「大体同じ効き目」というぐらいに捉える方が良いでしょう。
厳密に言えば違いますし、少なくとも同じ医薬品ではないです。

もう一つ、ジェネリック医薬品が先発品と大きく違う点がありますね。
情報の少なさです。
先発品は膨大な開発データもあり、また先発品として実際に使われてきた臨床データが豊富です。
しかしジェネリック医薬品は、それが無い。なぜなら有効成分が同じと言うだけで別の医薬品なので、先発品のデータをそのまま引用していいわけではないからです。
ついでに言えば、先発品のメーカーに比べてジェネリックメーカーは企業として小さいので、バックアップ体制に疑問符が付く、という点もあります。

このジェネリック医薬品の問題点については、 こちら で非常に詳しく述べられています。
さすがプロだ、違うなぁ・・・。コメントつける必要も無いぐらい解りやすい。
必読です。



さて、ジェネリック医薬品が先発品とは別物であることはご理解いただけたと思います。
では、なんでジェネリック医薬品は敬遠されてしまうのか?

医療関係者からはこのような意見をよく見かけます。

・先発品に比べて情報量が少なく、信頼性に欠ける
・メーカー自体の体制や能力に不安
・今までお付き合いしてきたメーカーさんとの義理

3番目は患者様から見ればどうでもいいことです。
前述の「情報の少なさ」が直接影響している意見ですね。
今まで使っていた新薬については、メーカー側にも臨床データの蓄積があり、実際に処方する医師の側にも情報がある。
それをジェネリックに変えると言う事は、全く新規の医薬品を使用するのと同じような心的プレッシャーがあるのでは?
そのぐらい慎重になることはいい事だと思いますが。逆にジェネリックだからと無頓着に使われる方が怖いです。

一方、患者側から見るとどうか。これは私が患者として感じた事ですが。。。

・今まで使ってきた医薬品が安心
・安い医薬品は、品質に問題があるような胡散臭さがある
・いちいちジェネリックにするのがめんどくさい

あと、単発の処方が多いから、薬代は大して気にならない、という個人的に重要なファクターも感じます。
1、3番目は、長期間の服用となる慢性疾患の患者さんだとそういう意見もあるのでは?
自分の体で「この薬は大丈夫」と言う事が分かっているところに、ジェネリックという新しい薬を使うことへの不安はあるでしょう。

患者から見れば安い医薬品は、安かろう悪かろう、というマイナスイメージは避けられません。
それをTVCMで「同じです!」と連呼するのは果たして有効なのか、逆に胡散臭さを煽っていないだろうかと心配です。

さてこの2者を見ると、キーポイントは「信頼性」です。
そしてその信頼性を担保する要件の一つがブランドです。



ブランド。どこそこが造っている、という製造元情報です。
このブランドというものは、消費にとって大きなファクターであることは言うまでもありません。

消費者は、買おうとする製品の情報を100%知る事は出来ません。
具体的には、その製品が及ぼす影響と言うものを、完全に予測する事は出来ません。
まあそれはメーカーも同じですが。
そうなると消費者はどこを検討するかといえば、過去のデータです。
どこそこのメーカー故障が少ないとか、初期不良が多すぎるとか、そういった情報が蓄積され、それは一つの潮流になる。
それがブランドです。

日本人はブランド志向、とはよく言われますが、私はブランド志向であることは悪くはないと思います。
医薬品に限らず、自分の好きなブランドを買う事は特に問題がない。
高級ブランドを妄信する事がしばしば批判の対象になりますが、別にそれも問題があるとは思えませんが・・・
ブランド”だけ”を考えて、商品の中身を知ろうとしない姿勢はあんまりよくないですけど。
ブランドというのは、会社の顔であり信用を示すものです。消費者がそれを購買動機にする事はごく自然です。

さて医薬品においては、名だたる有名製薬企業の製品は「老舗ブランド品」と言えるでしょう。
対して、ジェネリックメーカーが製造したジェネリック医薬品は、「 新参ブランド品 「generic」はノーブランドって意味ですが、ジェネリック医薬品はきちんとした会社が製造した医薬品で、そのメーカーのブランドであると言えます。
だからジェネリックって言葉はあまり適切ではないとする人もいます。
「後発医薬品」という言葉が最も適切かと思いますね。
」です。
この「老舗」と「新参」の違いが大きく影響します。

老舗はそれまでやってきた社会的地位や評判などがあり、「どういう会社なのか」と言う印象がはっきりしています。
逆に「新参」はそういった土台がありませんから、どういう会社なのか分からない。メーカーとしての顔がはっきりしないから、その製品に対しても懐疑的になる。当たり前のことです。
コーラは普通に飲んでも、見た目こそ似てても聞いた事の無いものは飲むのを躊躇ってしまう。
HONDAのバイクは安心して買えるけど、名も無いカスタムビルダのワンメイクマシンはちょっと買えない。
そんな感じです。

詰まるところ、 ジェネリック医薬品はあんまり信用されてない 、という事です。

逆に言えば、ジェネリック医薬品の日本における普及率を上げるのならば、如何にして信用を得るか、ではないでしょうか。



では、ジェネリック医薬品の普及、信用の獲得はいかにして行なうかと言えば。
地道な営業努力しかないかと思います。
法整備ももちろん必要は必要ですが、結局はメーカー自ら信用を勝ち得ないといけません。
法的に無理矢理処方させるのは意味の無いことです。

では営業努力とは何をすべきかというと、宣伝対象を明確にすべきではないかと思います。
TVCMで踊ってればいいというものではありません。
こと医薬品に関しては、消費者(=患者)への販売形態が他業種とは著しく違います。
(処方せん)医薬品は、医師の処方箋が無いと、患者は買えません。
患者の選択権はある程度束縛され、医師によるパターナリズムが大きなウエイトを占めています。
つまり、購入製品の選択権は、患者と医師の両立(それもやや医師の方にウエイトがある)状態です。
となれば、患者よりも医師に対する働きかけに重きを置くべきでしょう。
もちろんそんなこと既にやっているとは思いますが。。。
少なくともTVCMに金をかけるよりは効果があるかと思いますよ。
良くも悪くも、日本ではまだパターナリスティックな診療は根強く、ジェネリック医薬品の使用に際しては、医師が勧める事が一番効果的だと思います。
薬剤師が言ってもいい事でしょうが、現状では医師の一言がもっとも"効く"と思います。

となればいかにして医師、或いは薬剤師や他の医療関係者の信用を得られるかと言えば、これまた地道な営業努力でしょうね。
ジェネリック医薬品の懸念材料は「臨床データが少なくて不安」「メーカーとしてのバックアップ体制が不安」という2点だと思います。
となれば、その不安を解消するようなデータを揃えて提示する。これしかないです。

ジェネリック医薬品普及の特効薬はありません。
新参のメーカーがいきなり市場に出てきて信用してくれといっても無理な話です。
時間がかかる事は覚悟しているはず。
短期的にはマイナス収支になるかもしれませんが、長いスパンで考えるべきではないかと思います。



ここ最近、急に言葉が出てきたジェネリック医薬品ですが、確かに価格は下がります。
しかし価格と引き換えに他のスペックを落としてはいけません。
この辺、ジェネリックメーカーさんには是非とも頑張っていただかないといけません。

ジェネリック医薬品を処方する側、服用する側としては、ジェネリック医薬品は新しい医薬品だという心構えでいた方が、いろいろな意味で安心できると思います。

ジェネリック医薬品の登場が、患者様の利益になることを期待します。

官に任せず、自ら。保身のために。2007年01月02日 18時40分34秒

官がソフトウェアの危険性を評価できるほど成熟していないのが問題?国民宿舎はらぺこ 大浴場さま)からのtb。

まず一つ目。危険なソフトウェア拡散防止についての議論ですが。
申し訳ないが具体策はありません。
もっと言うならば、ネットを介して有害ソフトウェアが拡散する事を防ぐ事です。
そもそもそんな事が出来るのかと言えば、多分出来ないんだろうとは思います。
だからこそ、そもそもそんなソフトウェアを作らないようにする為の努力が必要だと思うのです。
もっとも。
それはもう開発者自身のモラルに委ねるしかないのですが。
プロとして金をもらっている人ならば変なモノは作らないと思うしそう信じたいのですが、プログラム言語をかじった厨なんかだとイタズラ程度の認識で厄介なものを作ったりするかもしれないし、倫理観が歪んだクラッカーも数多くいるので・・・どうだろ。

前にも言った事の繰り返しですが、予防的措置こそが最も重要視すべき事です。
ソフトウェアの場合、一度被害が発生したら鎮火が困難だろうし。特にネットワークを介した被害は一気に広まる。
となれば、そもそもの火種をつぶす事が先決です。
官に出来ることは法整備ですね。有害なソフトウェアに対する規制を明文化して抑止力とする。

もちろん官による法規制には多分に問題が多く(議員のセンセイ方がこの手の話に詳しい事など有り得ないし)不安も募るのはわかります。
ただ、
多くの技術者はこうした道義的な問題に対して、官に主導権を握らせたくはないと思っています。論理的ではなく感情的な帰結で物事が動かされてしまうことが多いから。これは政・官の現場に技術方面の専門家を置くという前提であっても同じです。おいらとしては、技術者連合みたいな第三者機関を作ったうえで、政・官と対等に議論できる場が作られるのが望ましいのではないかと思います。
(強調は筆者による)
もうあらかた答えは出ている模様。

医薬品の場合、関係省庁は厚生労働省ですが、何も独断と偏見と既得権益の保守のために勝手に動いているわけではなく、省庁とは別の機関に諮問する事が法的に義務付けられていたりします。まあ独立行政法人なので同じ穴の狢かもしれませんが。
これを応用して考えると、技術者連合(メーカー主導?)がソフトウェア開発に関するガイドライン、とか銘打って、業界主導で倫理規定などを文書化して周知させ、既成事実を作ってしまうのが手っ取り早いと思います。
そうすれば、官はこれに乗っかる事が出来る。下手な法律があれこれ出来る前にやっちゃった方が良いのでは?
官僚もまっさらな状態からあれこれ動くよりもやりやすいだろうし。

さらに言えば、国際的な協力も今後必要でしょう。
ITに詳しい国、というとアメリカ、欧州、インド、イスラエル、韓国とか?
こういった国々の間でガイドラインを共有する事も一つの案です。
医薬品の場合は日米欧三極の合意がなされています(ICH)。



二つ目。ソフトウェア開発における自由と規制について。

技術に明るくない人間に言わせれば、Winny も WinMX も peer to peer のファイル共有ソフトであり、どっちも「危険なツール」という認識が一般的という現状で、彼らに啓蒙活動を任せれば、「ファイル共有ソフトなんて作っちゃいかん」になるわけです。で、禁止されて、技術の芽が潰されているうちに、海外のファイル共有サービスが躍進し、国際的に Google 並みに一般化し、それはそれで便利な世界が構築された中で、日本だけが置いてきぼりにされる。それこそ digital devide であり、IT の後進化を推し進める悪政ということになります。
50%は理解、というか納得。
50%というのは、「キモチはワカル」という印象だということです。

技術の進歩を取るか倫理を取るか。
これはどの業界でも議論されうる事でしょう。
例えばバイオテクノロジーの世界の場合。クローン技術も進歩して今や体細胞クローンも創生可能になってきている。人間のクローンを作って自我を消してしまえばこれ以上無い実験対象になる。医薬品創造も一気に早まるし科学技術は未曾有のブレイクスルーを体験する事になる。
しかし、どのバイオ研究機関においても倫理委員会の承認なしにはクローン研究をしないシステムになっているはず。そもそも完全なヒトの体細胞クローンなど許されるとは思えませんが(ましてモルモットにするなど)。
つまり規制。
完全に純然たる科学の視点から見れば、クローン研究をフリーにしてしまえば科学技術は一気に進化する。
しかし倫理はそれを許さない。
この場合、規制をどう見るか。という事です。

研究者としては自身の興味を満たすべく出来る限り自由に研究をしたい。
しかしそれが行き過ぎてしまえばマッドサイエンティストと呼ばれてしまう。
コンピュータウィルスにおいてもこういった考えから作り出している人もいるんじゃないかと邪推。

何かを作るときには規制というブレーキは絶対必要。
それがどんなブレーキでどのぐらいの効き目になるのかは分からないけど、現状のようにブレーキがぶっ壊れているかそもそもブレーキがないような状況と言うのは、明らかにヤバい。
ブレーキ無しで上手い事いい方向に向かってくれればよいのだけど、それは楽観的過ぎるでしょう。

なお、digital divideってのが起こるのは、各国でソフトウェアに関する共通認識が得られていないからじゃないかと。
そういう意味からでも、世界共通のガイドラインは、今後必要になってくると思います。



しかしまあ、つくづく思うのが、IT業界と言うのは厄介なものですわ。
そして誰でもITの技術の恩恵を受けられると言う素晴らしさの反面、誰でも創造に参加できるという素晴らしさと恐ろしさが背中合わせの世界。どんなに悪意のある人間でも、参加することを拒否できない。
そして一番のメリットでありデメリットであるのが、安い事。
PCがあれば何でも出来てしまう。素晴らしいソフトもコンピュータウィルスも。
そういった特殊な業界に倫理を持ち出す事は、もしかしたら意味が無いのだろうか、と不安になる。

ただ、いずれにせよ、どこまでがセーフで、どこからがアウトなのかというのは、実際に事件が起こってみないことにはなかなか分からない部分も多いんではないかという気もします。社会的に、情報処理、情報リテラシーに対する経験が浅いのです。だから、某社会学者風の言い方をするならば、今はまだ「軽い地獄を見る」時代。ひたすら経験を重ねながら、民度を醸成してゆくべきなのではないでしょうか。
民度、熟成されるといいなぁ。
今は軽い地獄で将来がホンマモンの地獄にならん事を願う。。。
それまでは現実問題として、ユーザーが自己防衛をしっかりするしかなさそうだ。



3つ目。ヘルプ。
言葉が足りなかったかもしれないけど、私が言う「ヘルプ」は取扱説明書全般ってニュアンスでした。分かりにくくてすまぬ。

こうした認識が、多くの技術者の間で一般的であるかどうかは、正直不明です。が、一般的であって欲しい、とも思います。ただ一方で、そういう部分の記述ばかりが賑やかになるために、結果として煩雑な内容になってしまい、かえって分かりにくいマニュアルになってしまう可能性も否めないので、その辺の情報の整理はセンスに委ねられるんだろうなぁとも思います (技術畑の人間にこのセンスが欠如しちゃっている人間は多いです、っていうかそもそもドキュメント執筆全般に対して苦手意識を抱いちゃっている人間は非常に多い。ブログやるだけでも結構鍛えられるもんなんだけどねw)。 (強調は筆者による)
偏見かもしれないけど、ソフトウェア開発者として専門性が強くなるほど、ヘルプとかを軽視してしまうのではないかと。
つまり、プログラム本体を優れたものにする事には全力を尽くすけど、それをユーザーにうまく使ってもらう事には大して重要性を感じていない、とか。
「分かる人だけ使えればいーよ」みたいな。
そうあって欲しくは無いのですが。。。

ソフトウェアだけじゃなく、以前使っていた分析機器ですが、そのほとんどはマニュアルがおざなりでした。複雑な機械であればあるほど。
どんなに優れた機械でもそれが正しく使われなければロクな結果は出てこない、と言う事を開発者というかメーカーは意識してくれているのだろうか。
もちろん考えてくれているとは思うけど、開発者がマニュアルを作ること自体がそもそも問題なんですよね。だって自分の中では当たり前でもユーザーが分からない事、という線引きが出来るわけが無いんだから。

マニュアルにある免責事項について。

Windows の使用許諾契約書 (EULA) は、Windows のインストール時か、または (プリインストールマシンであれば) 最初の起動時に必ず表示されるわけですが、あれにちゃんと目を通している人間ってどれくらいいるのでしょうか。
(略)
EULA って、常人にはなかなか理解し難い文面且つ長ったらしいものが多いような気がする。もちろん、内容に無駄があるから長いわけではなくて、様々な観点で契約について考慮した結果、ああいう文書になってしまうわけなんだろうけれども (良心的に考えるならば)、それならばインストール時とか契約時とかに一回だけみせるだけじゃなくて、いつでも再確認できるようにしておくとか、ヘルプにも吸い上げてより詳しい解説を添えるとかした方がいいんでないかなぁとは常々思っていたりもする。
はい、読んでませんw
というかあんなに長ったらしくて分かりにくい文章を、読む事を前提としている時点で間違っているし、MSの方でも読まない事を前提としているのでは?
マニュアルでもなんでもそうだけど、相手に説明しなければいけない文章において、相手がさっぱり分からないような文章であることは、致命的です。そしてそんな文章を書いておいて相手がわかっている事を前提としているのは愚の骨頂です。
個人的な文章、blogとかだったらなんぼでも構いませんけどね。
しばしば「説明責任」と言う言葉を使いましたが、これは確実に相手に理解させる責任、という意味合いが強いです。
相手に理解させないと後々トラブルの火種になることが目に見えているからです。
トラブルとまで言わなくても、ソフトの使い方が分からないとかで何度もサポセンに「わかんねーぞゴルァ」と電話するのはお互い無駄なコストで、出来れば避けたい事態であるわけですよ。
それ故、古川氏の意見というのはまさにユーザーが言いたいことを代弁してくれているわけです。
元社長がそんなこと言っちゃってよいのか、という点も含めてステキですwww

あとはここ。

サリンの場合、実際に作るには製法に関する知識や技術、それから機材や材料をそろえる必要があるわけで、素人が容易に製造できるわけではないでしょう。しかしプログラムの場合、コンパイラさえ入手できればプログラムを実行可能化することができる。
そう。
第2カラムの最後のほうでも書いたけど、ソフトウェアの場合、学生でも変える値段で、極めて危険なソフトウェアを作り出すことも可能であるという点。
それがメリットでもありデメリットでもある。
誰でも勝手に凶器を持ち出せるような世界なんですよ。そしてその持ち出しをとめることは出来ないし、持ち出した凶器を回収することも出来ない。
だからこそ他分野よりも余計にその武器の取り扱いに関する倫理観は成熟していなければならないはずなのに、現状では倫理が技術に追いついていない。
もし倫理観が確立していたとしても、一般書籍としてプログラムの学習が容易に出来るので、技術のみを学習して心構えを学ぶ機会が、教育機関以外はあまりなさそう。
教育機関でもそういったカリキュラムがあるかどうかは知らないけど。。。

技術ばかりが先行してしまっている現状は、非常にバランスが悪いと思うのです。
バランスを欠いたサイエンスの末路はロクなものにならないでしょう。



あれこれ書きましたが、ITはまだ発展途上なので、今後こういった議論がますます盛り上がる事を期待します。
倫理観やそれに伴うシステム作りにおいては、官がまともな方策を打ち出すとも思えないので、タイトルにあるように、当事者から自発的に湧き上がるのが望ましいかと。
それは開発者の権利を守るためにもベストだと思います。

これからは予防医学が重要なのですよ2007年01月01日 12時44分07秒

新年早々のtb返しっ。

ソフトウェアの責任の所在 国民宿舎はらぺこ 大浴場 さま)からのtb。

まず最初に断っておくと、何も全ての責任をソフトウェア開発者に求めているわけではありません。
肉体的精神的に無理だし。。。

まず気になるのはここ。

主に受託開発の仕事に携わるソフトウェア開発者のおおくは、ソフトウェア開発は製造業ではなく、サービス業であるという認識を持っています。
つまりは自分らの仕事の結果は製造物には当たらないからPLが発生しない。保証が必要ならばそういう契約を最初から求めるべきだ、
なーんて邪推をするつもりはないけど。
「製造業=不特定多数への販売」と考えていて、それに対してサービス業だから顧客に対して密にサポートしていますよ、ということだろうか?
自分自身もそういうサポートの有難みは知っているし、その辺が十分にサポートされていることは理解しています。
ただ一つ言っておくと、どの業種でも顧客を意識して仕事をしています。それが製造業であっても。
もちろん自分も医薬品製造業に携わっていた時は、その事は初心として忘れないようにしていたつもり。
顧客を意識しないで仕事をする事は慢心や独り善がりの原因になる。

文面ではどうも「事後の賠償責任」を相当重点的に考えているようで(特に実際に問題となりそうなところ=自分の身に降りかかり得る揉め事ゆえに)、その辺PL法とか保証の責任とかに深く突っ込んでくれているのですが。。。
事後処理については別に気にしていません。
契約があるならペナルティが科せられるし、不特定多数向けのフリーソフトノケースでも、

一介の個人プログラマーが、趣味で配布しているプログラムを使用した結果、物理的・金銭的な損失が発生した場合で、且つその原因が 100% プログラム側にあった場合 (つまり、損失が回避不可能であった場合) であっても、プログラマーに賠償義務が発生すべきではありません。これは、裏を返せば、損失補てんを望むのであれば、誰とも知らない個人が趣味で作ったようなプログラムを利用すべきではない、ということです。このようなリテラシーは、まともな企業であればどこでも持っているものです。この前提は、崩すべきではありません。
という意見もあります。50%ぐらいは理解を示せますが。

問題なのは、その前段階。
被害が高確率で発生しうるソフトウェアの蔓延を防ぐための体制が整備されていない事が大問題だと思うわけです。
加えて言えば、ソフトウェア被害が起こった際に上手く対処が出来るのかと言う事も気になるのですが。
開発者だけに言ってもどうしようもない事ですが。。。

詰まるところ、今足りないのは予防的措置だと思うわけです。
それはシステム的な部分だけじゃなく、開発者に対する啓蒙活動など、包括的なものを指します。
被害の発生しうるソフトウェアを、作らない事。配布しない事。速やかに回収できる事など。
回収は事実上不可能ですが。。。
被害が出た後誰が責任持つか、なんてのは当事者だけでやってりゃいいわけで、そもそもの被害を出さないためにはどうするか、という事の方が重要だと思います。

法的にはまだ明文化も何も無いのですが、ソフトウェアの責任の所在に関する議論はさておき、出来る限りトラブルが起こらないようにするという努力義務はあるでしょう。単純なフリーソフトであってもね。
ソフトウェア開発における倫理観、というのも気になるところですが。
ソフトウェアの倫理と言うとどうしてもあっちの方を連想しがちですが、違います。
なお悪意のありそうなグレーなソフトウェアについて同軸で論じてはならない、という事ですが、被害の阻止を図らねばらなんと言う点では同じです。
そーいったヤバげな物は作るな、という倫理規定なりを議論すべきであると。
いずれにせよ、そういった被害の発生しうるソフトウェアを以下にして阻止するかと言う事は、どこかで十分議論したうえで体制作りをしていかなければならんと思います。


表現の自由の下に、余程のものでない限りソフトウェア開発は自由にすべきです。
しかし例え小さなプログラムでも、世に出すならばそれなりの責任を持って欲しいと思うわけです。
確かに怪しげなプログラムに手を出したやつが一番間抜けなのは間違い無いのですが、そう言ってられなくなる日が来るかもしれません。



ヘルプとかreadmeに関してですが、これは質問になってしまうけど、どのぐらい本腰入れて作っているのだろうか。

個人的見解ですが、本体(機械、器具、ソフトウェア)をしっかり作るのはもちろん、取扱説明書がそれと同じかそれ以上に大切です。
取扱説明書でなくても、その後のサポート体制ですね。
どんなに優れたものも、うまく使われなければクズに等しい。

私がソフトウェアについて求めるのは、この部分が非常に大きいです。
「説明責任」という言葉を使いましたが。

平たく言うと「大事な事は先に言ってね」という事です。
「先に」、です。

使用者が取扱説明書を全然読まずに起こすトラブル(よくあるが)は、十中八九ユーザーが悪いのですが、大切な事を分かりやすく使用者に提供できなかったメーカーにも多少の責任がある、
とユーザーは考えます。
それでクレームが付かない様に、大切な事は分かりやすく目に付きやすいように書く、足りなければ直接説明する。
免責事項は必ず読ませるようにしておく。
とか。
ソフト起動時にポップアップで無理矢理読ませるぐらいしてもいいんじゃないでしょうか?

ユーザー満足度の向上以上に、メーカーの自己防衛に直結する事ですので。
ソフトウェア開発者の方々には、是非ともヘルプの必要以上の充実をお願いします。
今まで満足なヘルプを見たことはありませんし。。。



あと一つだけ。

blogにプログラムの例などを記事として書いた場合に、それはどう扱うのか、という事が書かれていますが・・・どうなんでしょうね。
ソースコードと、コンパイラを通したプログラムと、どの段階でどう扱うのか。
私は素人なんでどうすればいいのかは分かりませんが。。。

単純な意見として、直接の作用を有する時点で「製品」として扱ってよいのではないかと思いますよ。
悪い例ですが、毒ガスサリンの構造式だったらいくら書いてもいいけど、実際に作ったらアウト、それと似たようなものじゃないかと。
しかし実際には、コンピュータウィルスのソースコードを公開していたら、公安にマークされそうな気もしますが。。。

そういったところも含めて、議論の余地ありですね。

つくづく思うのが、少なくとも日本におけるITは先進でもなんでもないし、倫理が技術に追いついていない事が顕著に見受けられる分野でもあります。
今後ITを発展させるのであれば、まずはその取扱のガイドラインを確立しなければ、今以上にカオスな分野になりそうです。

労働環境はすでにカオスというかコキュートスの模様ですがw