ものつくりの自由度2006年12月31日 08時57分48秒

Winny問題に絡んで、作者の金子氏に有罪判決が出た事は各地で衝撃的に報ぜられたわけですが。
そのWinnyに関わらず思うところがあったので書いておきます。
ただし、私はIT関連ののプロなんかではぜんぜんないし、法律論を捏ねられるほど詳しくも無い事だけはご了承ください。

突っ込もうかどうかちょっと迷ったけど国民宿舎はらぺこ 大浴場さま)からのtb。


まずWinny裁判の骨子を私なりに大雑把にまとめると、
「ソフト自体は悪くないけど作ったアンタの言動は問題があんのよ」
という、何とも煮え切らない判決理由。150万円の罰金刑となりました。

この判決理由については諸々の論理的な矛盾点が指摘され、特にソフトウェア開発者からみると非常に不満たらたらのご様子。
私は「本来であれば無罪であるはず。しかし世間を騒がせてしまったソフトを造ってしまったがゆえの見せしめの意味での罰金」という理解をしています。
無罪であるはず。
しかし実際問題として騒動になってしまったがゆえに、予防論的な措置として、已む無く罰金刑を科した、のではないかと考えています。
とはいえこれは裁判所の判断についての予想であり、原告側についてはそんな高尚な考えなど微塵もないだろうというひねくれた予想をしておりますが。単なる逆恨みの延長線じゃないのかと。

まあ裁判については各所で激論が交わされているようなので、ここではこれ以上触れません。



さてこの裁判における議論の最中、私が非常に気になった―――違和感を覚えた―――意見があります。

「ソフトウェア開発という表現の自由の侵害である」

ああ、なるほど。ソフトウェアはあくまで”表現”なのか。そうやって考えているのか。
全てのIT技術者がこう考えているかどうかは分かりませんが、確かにこういった意見もある模様。
しかしこの言葉には激しく違和感を感じるのでありますよ。

まず、「ソフトウェアは表現」というところです。
日本の法律においては、製造物はPL法の適用を受けます。しかし現在、ソフトウェアは製造物という扱いではなく、PL法の適用を受けないとの事。
もう一つは「ソフトウェア開発は自由である」ということ。

私は医薬品製造に携わった事があるので、そしてソフト開発なんてした事ないので言いますが、
ものつくりが自由なわけがない
と思うのですよ。
冗談半分に「同人の試薬とか医薬品とかあったらいやだなぁ」などといった事がありますが、まさにそれです。
化学物質や医薬品の製造においては、いろいろな法律の縛りを受けます。
機械や器具でも、製造に当たっては何がしかの法的制約を受けるでしょう。
それは、下手のものを造ったらとんでもない被害が発生する事が分かっているから、法律で予め予防しているわけです。

ではソフトウェアはどうなのかというと、同じ事です。下手なプログラムは壊滅的な被害をもたらします。バグの有無だけじゃなく、機能的な部分でも言える事です。
もちろん悪意の有無も問題にはなりますが、被害が発生する以上、それが予想される以上、法的な規制は当然行わなければならないと思っています。
現状ではそのような法律はありません。だからバグがあっても「仕様です」という言い訳でお咎めナシになってしまうのですが。


こういう事を書くとソフトウェア開発者から非難の嵐がくるような気もしますが、大事なことです。

現実問題としてソフトウェア開発者にそこまでの負担を増やす事は、肉体的精神的に無理だとは思っていますが、しかしソフトウェア開発という、潜在的な危険性を内包している行為を、無法のまま放逐していいとも思えません。
政府はもちろんのことソフトウェア開発者自身にも、こういったことを考えて欲しいと思います。



ここまでは開発者側への提言ですが、もちろん使用者にも、というか主に使用者の側にやるべき事はあります。
それは、どんなに完璧なソフトウェアでも使い方を間違えば被害は発生すると言う事です。

今回のWinnyのケース、細部を突付けば技術的な問題点も色々有る模様ですが、結局は使った側が一番悪い。
よく取りざたされる「包丁屋理論」(刺殺事件が起こったら包丁売ってる店を摘発するのかよ理論)も、単純なようで正鵠を得ています。
だからこそ何で金子氏を起訴したのか疑問に思うところであるし、nyで機密書類バラまいたアホな部下を教育する方が先じゃないのかよ、とも思うわけです。

ここで一つ問いたい。
自分も含めて、使用者は果たしてどのぐらい真面目に説明書(或いはreadme)を読んでいるか。
ちゃんと免責事項に目を通しているか。

こんな事を言い出すのは、「説明責任」というものがどう扱われているのかが気になるからです。
医薬品の場合は、病院の処方箋を元に調剤された場合は必ず薬剤師による服薬指導が行われますし、市販の風邪薬においても説明書きがあります。
医薬品というと中身の錠剤やら散剤の事だと思いがちですが、内容物のほかに包装、パッケージ、添付文書までひっくるめた上で「医薬品」と呼びます。
それは内容物がしっかりしていることは当然のこと、その用法が極めて重要であるからです。
ソフトの場合はどうでしょう。
ソフト自体が高性能でバグが無いことは着目されますが、ヘルプファイルの善し悪しについてそれほど重要視されているとは思えないのです。
もちろんソフト使用者がヘルプファイルを呼んでいるのかどうかも疑問ではありますが、開発者側もどこまで気合入れてヘルプを作っているのか。

詰まるところ、ソフトウェアは使用方法などの「説明責任」が、開発者使用者ともども軽視されている気がしてならないのです。

包丁は美味い料理を作れもするけど人を殺せもする。
医薬品は病気を治せもするけど悪化させもする。
ソフトは―――

自分も含めて、考えなければならないと思います。
それこそ開発者に対して失礼に当たると思います故。



最後に。

自分の畑で体にいいものを栽培して「効くよ」といってご近所に無償で配ったとして、それで健康被害が発生した時「良かれと思ってやったのに」なんて言い訳は通用しない。
堂々薬事法違反です。

その事をよーく考えてみて欲しいと切に願います。

誇り高き日本人として2006年10月28日 00時32分28秒

たけしの誰でもピカソを観てましたら、シャネル代表取締役の方(名前忘れた)が出てました。
その方は日本びいき、というか日本マニアで、日本人よりも日本の文化に詳しい方です。

その人が日本で唯一悪いと思うことは、すぐに物を無くしてしまう事だそうです。
紛失ではなく、古き良き物を壊して新しいものに挿げ替えてしまう事、例えば家を建てるために日本家屋を壊してしまうとか、そういうことです。
確かに古き良き文化の喪失というのは、かねてより危惧されていることではありますが。

しかしなぜ、現代において文化の喪失がいとも簡単に行われてしまうのか。

それは、日本人が謙虚な民族性だからだと思います。
前面に出ない奥ゆかしさを美徳とする日本の精神性は、私は好きです。
しかし、現代においてその価値観が歪曲して伝わっている気がします。
というのも、昔の人は主張こそしないにせよ文化を誇っていたはず。
ところが現代では、謙虚なあまり悪いところばかりをクローズアップしてしまい、より良いものを目指そうとする。
現状に満足せず上を目指す事は素晴らしい事ですが、現状の価値を過小評価してしまう事は問題ですね。

謙虚なあまり、自国の文化を素晴らしいと思う事に抵抗がある。

今必要なのは、誇りです。
自国の文化を下らないなどと思っている国などありません。
胸を張って自国の文化を誇りに思えること、ひいては日本人であることをきちんと誇れることが大事なのではないでしょうか。
今、日本で文化の喪失が起こっているのも、自国文化に対する誇りが無く、その価値を見出せていないからです。

こういうこと書くと右寄りだとか何とか言われそうですが(保守ですが何か?)
右だろうが左だろうが、真人間ならば国の行く末を案じるものです。
それが出来ない人は不真面目です。

話がそれましたが、自分の国を誇ることは大切ですよ。
アル・カポーネの言った「咲く花は違えど根っこは同じだ」という言葉を極限までポジティブに解釈すれば、根っこがしっかりしてればどんな花も咲ける、って事です。
日本を飛び出して世界で活躍する人も、日本人という根っこがしっかりしているからこそ世界で花咲ける。
根っこが不安定だと花もしおれます。

昨今の厄介な問題も、日本人としての土台が不安定だから足元をすくわれたのではないかと思いますよ。
謙虚なことは良いのですが、卑屈になってはいけません。
過去も現在も未来も、全てひっくるめて受け止めた上で誇りを抱いていかなければならない、ある意味義務だと思います。
それが日本として、日本人としての責任の取り方じゃないかと思います。
ただただ謝って金出せばよいということじゃないですからね。

しかし誇りと同時に、日本人が本来持つ謙虚で優しい心も忘れないようにしたいものです。
友達が悪い事をしたら、毅然とした態度で間違いを正すことも、優しさの一つ、だけどね。

人と人との結びつき2006年10月10日 16時46分54秒

代理出産裁判で品川区、出生届受理不服の許可抗告
(by 読売新聞さま)

まー、やっぱりと言うべきか。
今回の争点はここ。

民法の解釈上、母子関係は出産によって生じ、代理出産による母子関係は認められない
子供のアイデンティティは母体により確定する、というところか。

しかし、科学技術の進歩した現在においてこの判断基準はいささか時代遅れであると感じないことも無い。
代理出産という方法論が確立した以上、母子関係を確定させる唯一の手段であった出産は、もはや母子関係を強固に確定させるものではなくなったのだから。
信頼性を第一に考えるのならば、DNAを機軸とした判断基準にすべきではないかと思う。
もちろん生命の神秘性を損ねてしまうような無粋な基準も、安易に設定すべきではないが。

今回の抗告については、処置としては正しいかと思う。
生命の定義を揺るがすような重大な案件だけに、最高裁まで持っていって十分以上の議論をすべきだ。
とはいえ、高田夫妻の子供が成長し、他の子供と教育などの点において遅れをとらないよう、早く結論を出すべきだとも思うが。

もし高田夫妻の訴えが退けられたら、一度アメリカの代理母の元に親権が発生し、さらに養子縁組、というところか。
何にせよ今後に大きく影響する案件なので、確実な結論が求められる。

生命と言うもの、人間と言うものをどう定義するか。
タブーにも近いような根源的命題であるが、結論付けなければならない時がきたのかもしれない。



2007.03.24 追記

最高裁の判決が出ました。結果、「NO」と。
詳細には「現行の法体制では認められない」という趣旨だそうです。加えて「立法による速やかな体制作りが望まれる」と。

残念な判決になってしまいましたが、しかし妥当でしょう。
今後は意見の陳情先としては、裁判所ではなく立法機関、即ち国会、議員のセンセイ方です。
難しいケースだとは思いますが、一刻も早く法改正などによる対応が望まれますね。

ご夫妻のお子さんは、もう幼稚園を卒園。早くしないと。

木と森と2006年09月27日 21時35分39秒

昨今の凶悪犯罪の増加とともに、死刑執行がニュースになることも多くなってきました。
死刑、それは、他の刑罰とは明らかに一線を画するもの。
全ての人が縁遠いことが望ましいのですが、そうも言ってられない状況。
考えなければいけない局面。

小林薫は死刑とかより懲役300年ぐらいにしておいた方が良いと思う。 国民宿舎はらぺこ 大浴場)からのtb。



死刑。
予備知識としてWikipediaなどで調べてみると良いかもしれません。ただ、内容が内容だけに、見たくない人は見ない方が良いでしょう。
画像はもちろんありませんが、結構怖くなる内容です。

まず、日本はもちろんのこと死刑という制度があります。アメリカ(一部の州除く)もそうだし、アジア諸国、アフリカの国々などでもあります。
ヨーロッパは基本的に死刑制度は廃止されたようです。
なお、中国は死刑執行数がとても多い国です(人口も多いですが)。台湾も多く、シンガポールは麻薬絡みで死刑執行があり、それでオーストラリアとの国際問題に発展しました。
まあ、この辺は深く触れません。

死刑執行の方法は様々ですが、日本は絞首刑です。
詳細は・・・ウィキ見てください。強いて挙げられるポイントは、窒息じゃなく頚椎損傷だという主張です。つまり、一撃で気を失うから苦しみはあまり無い、という人道的配慮、だという事です。
この「人道的」という言葉が、死刑の是非において重要なキーワードになります。



さて。
日本のおける死刑執行がニュースを騒がせています。
記憶に新しいのは宅間。次いでヤギ。一番新しいのがtb先記事にもある奈良女児誘拐殺人。これは永山基準に縛られない判決でした。
多いですね。
そして、死刑と言うと出てくるのが自称人権派弁護士で死刑反対の方々。
山口県光市母子殺害事件において、死刑反対派の安田弁護士が無罪を主張。
(それ自体は本人の主義だから言うのはタダですが、裁判フケたりするのは如何か)
裁判が高裁に差し戻されました。

山口県光市の例のように、そもそも死刑と言う制度自体に疑問を抱く人もいるわけですが・・・
共通するのが「死刑は非人道的である」という主張です。
個人的には、その意見もまあ分からなくも無いです。
現に死刑制度を廃止している国もあります。その代替刑として終身刑があります。
無期懲役」と「終身刑」の違いにご注意を。



死刑は非人道的であるのか。
人の命を奪うことはもちろん、良くないことです。
言うなれば、死刑は(戦時中でもなければ)合法的に人を殺す行為です。
それは単純に―――悲しいことです。

ではその代わりとして終身刑、二度と塀の外に出られない懲役刑はどうかというと、これも非人道的だと言う意見もあります。
その場合の最高刑は無期懲役になるのでしょうが・・・

死刑と終身刑のどちらが人道的かというのは、その受刑者によっても変わるでしょうね。死にたい人と死にたくない人がいるから。

ここから私の意見ですが。
死刑に限らず、罪を犯したものに対する刑罰の意味を考えなければなりません。
例えば軽微な犯罪などでは短期間の懲役や罰金刑になります。罪が重くなれば罰も重くなります。

その罰は―――何のためにあるのか。

これは犯罪を犯した人間に対するペナルティであると同時に更生の機会を与えることでもあります。

しかし、死刑及び終身刑は性格が異なります。
何故なら、その受刑者は二度と社会復帰することはありません
ヤな言い方すれば、生きて塀の外には出られません。
受刑者の更生を考えていません。別の言い方をすれば、死刑及び終身刑と言うのは受刑者のために行うものではない、という事です。

では何のために行うかと言えば、犯罪被害者の為のみならず、社会のためです。
それは一般予防論的(類似犯罪抑止)な効果もさることながら、社会的な不安の予防でもあると思います。
死刑を求刑される様な重犯罪者を社会復帰させれば、世間は必ず再犯に脅える事になります。
「あんなとんでもない犯罪者はまた犯罪を犯すだろう」という見方を必ずしますし、実際にそうなる可能性も高いでしょう。だからこそ死刑を求刑されているとも思いますが。

死刑相当の重犯罪者は、もはや社会に存在することを許されない、という社会の総意があるように思います。
口には出さずとも、ほとんどの人がそう思うのではないかと。
それを防ぐための、完全なる社会との隔絶、その為の死刑或いは終身刑だと思います。
そして、非常に悲しむべきことではありますが、それを否定する程の要件は浮かびません。

こういうテーマに「アポトーシス」なんて言葉を使うのは限りなくナンセンスではありますが、該当者の行く末だけは近いかもしれません。

ここまで言う事の前提として、警察の捜査が限りなく完璧に近く、限りなく高確率、100%に限りなく近く、その被疑者が犯人であることが求められます。警察に頑張ってもらうしかありません。
その要件を満たし、死刑が求刑され、法務大臣が赤鉛筆でサインをし、死刑が確定したら、

私は思います。


本来ならば斯様な形で人命が失われるのは悲しいことだ

だが、その罪は―――もはや絶対に許されない

だから

社会のために死んでくれ


―――と。



今回はかなり重たいテーマで、書くとだんだんブルーになってきます。
しかし、tb先のような刑罰の軽重の問題もあり、避けては通れません。といいつつ法の問題には触れてないけど・・・

死刑廃止は世界的にも論調が大きいものです。
日本の弁護士の意見も確かに分かります。
でもね。

死刑廃止を訴えるよりも死刑になるような重大犯罪をどうやって抑止するかと言うことの方が何万倍も重要 だと思うし、それを弁護士の口から言って欲しかったな。

がっかりだよ。

君が代が国歌じゃないとか誰が言っているのかしら?2006年09月21日 22時56分01秒

国旗掲揚時、都教委の教職員への起立強制は違憲…地裁 (by 読売新聞さま)

まーたイタい揉め事を・・・



とはいえ、裁判所の判断も理解は出来ます。
ポイントは2つ。

通達や都教委の指導は、教育の自主性を侵害する上、一方的な理論や観念を生徒に教え込むよう教職員に強制するに等しい
生徒が日本人としての自覚を養い、将来、国際社会で信頼されるために、国旗国歌を尊重する態度を育てることは重要で、式典で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることは有意義」と認め、「教職員は国旗掲揚、国歌斉唱に関する指導を行う義務を負い、妨害行為や生徒に起立などの拒否をあおることは許されない」とした。
やるんならテメー1人でやってろ、という事だね!w
(最初の引用は、一瞬ジョークかと思いましたよw)

憲法の解釈として、確かに信仰や思想の自由はあるので判断としては毅然として法解釈を全うしたという印象です。
もっとも、信仰や思想は自由でもそれを実行に移していいとは誰も言ってないのですが。
と揚げ足取りは置いといて。

今回の判決において、慰謝料なんぞ払ってやる必要あんのか、というのも疑問ですが。
一番怖いのは、こういった連中が自分の生徒に自分勝手な思想をバラまくことです。
判決にもあるように、妨害はアウト。ちょっと前にも式を妨害しようとしたアホ教師が怒られてましたね。
自分が立たないのは別にいいので、自分の信念を勝手に貫いていてくださいな、と思います。
それで八分られても知りませんけど。

君が代や日の丸が軍国主義の象徴だとか、そんな事は勝手に思ってりゃいいのですが。
そういう思想を持った人間が教師であることは嫌ですね。
特に、そういう教職員団体の一味だと言うことが公にならずに、知らず知らずそういう人間に学んでいるのは問題があるかと思います。

教師の方で、君が代や日の丸が嫌いだという方は、是非ともそのことを正々堂々とアピールしてください。
日の丸嫌いバッチでも付けといてくださいな。そうすればそういったイタい方を回避できますから。

学ぶ側にも教師を選ぶ権利があります。



2006.09.22 追記

あのイタい人たち、一般企業に照らすととんでもないことだ。

「手前の指図は受けねえよ!」

と社長に向かって吼えるようなもんだ。
自分が人事関係だったら、間違いなくそいつは採用しない。
というわけで、日の丸が嫌いな教師の方々は、是非とも校長先生の前で吼えてください。

逆に、学校側は採用の際に契約書など取り交わしてはいかがでしょうか。
服務規程違反は毅然として処分する、と。

一般企業じゃ当たり前の事なのに、学校の閉鎖性が違った意味で問題ですね。