俺、公務員になろうかなぁ・・・ ― 2006年10月19日 18時23分12秒
5年間で出勤8日 奈良市職員、病気を理由に
(by 朝日新聞)
ちょっとお前、ここにきて座れ。
こっちは半年でクビだってのによぉ(-_-#)
奈良市によると、男性職員が最後に出勤したのは昨年12月23日。今年に入って年次休暇、病気休暇を相次いで取って1日も出勤していない。2、4、5、8月にそれぞれ違う病名で診断書を提出、休暇を取り直していた。同市の規則では、ひとつの病名で90日間の病気休暇を認めており、給料は満額支給されている。
ちょっとお前、ここにきて座れ。
こっちは半年でクビだってのによぉ(-_-#)
給食はタダじゃねーんだぞ ― 2006年10月02日 11時03分17秒
こ れ は 酷 い
(
国民宿舎はらぺこ 大浴場
さま)からのtb。
ほんとそうだよ、これは酷い。
日本はいつからこんな馬鹿が闊歩するようになった?
恥を知れ。
今も昔も生活苦しい家族はいるし、そういうのなら情状酌量の余地があるというものだが。
これについては同情の余地が無いね。ただのアホです。
とはいえ、給食費を払わないバカ親を不幸にも持ってしまった子供に対して給食を差し止めるのはナンセンス。
それこそいじめの原因だし、親のバカさ加減の責任を子供が負うなどというのは馬鹿げてる。
この給食費問題。「うだうだ言ってねーで払えボケ」というのが良識ある人間の意見だとは思いますが。
実はそう簡単に話はいきません。
第2項によれば、
・親は子供に教育を受けさせる義務を負う。
・義務教育は基本的にタダである。
とあります。
つまり、私立とか行かなければ小中学校はタダで行けるはずだという事が憲法レベルで規定されていると言うことです。
ここで問題が生じるのが、給食って教育?という疑問です。
教育基本法においては給食に関する記述は見当たりませんでした。
しかし学校給食法にはそれらしき記載があります。
しかし、同じく教育基本法にはこうもあります。
・給食のための設備費や職員の人件費は、学校側が負担
・それ以外の経費については保護者負担
となりますね。
法体系の基本から言って、憲法と言う最高法規に反する法律や政令は意味を成さないので、給食が教育であると判断されれば、給食費も当然無償となります。
それ故給食費を巡る議論も盛んに行われているようです。
現状では給食費の解釈は未決着なので、払うことが前提です。
となれば、どうやって給食に掛かる経費をかき集めるか。
もし給食が教育であるとすれば、給食費は税金(地方税?)で賄われるでしょうね。
子供のいない人から徴収するのは文句が出そうですが・・・
逆に給食が教育ではないと判断された場合若しくは現状。
この場合は、何が何でも保護者から取り立てる。地の果てまで負う。逃がさない。
毎月の給食費、というカタチだと取り立ての回数も非常に多いので、逃げられる確率が高くなります。
年1回。或いは学校に就学する期間の合計金額を、まとめて徴収。
かなり額は大きいのですが、逆に奨学金制度やローンも使いやすくなりますかね。
そして学校側は経費の詳細とともに、余剰金額を卒業時に返還、というスタイル。
転校とかすると面倒ですが・・・
最悪の手段は告訴です。
最悪と言うのは、それが子供のいじめの原因どころか社会的なダメージがかなり大きいと言うことです。
しかし、現状では給食費未納は立派な法律違反です。
支払能力があるにも関わらず未納の場合は、告訴、そして資産差し押さえでも、致し方ない。
払えるのに出し渋った馬鹿な親の事などどーだっていいのですが、子供が傷つくのは嫌ですね・・・
もっとも、こんな対策案考えること自体、極めて馬鹿馬鹿しいのですが。
さて。
ここまで読んでみて、
「なーんだ義務教育タダなんだから給食費だってタダに決まってんだろ払わねーぞ、給食止めたら憲法違反だって訴えてやるからな」
と言う感じの意見を持った馬鹿者は日本から出て行きなさい。
まず断言します。
給食費を払わないボケ共は法解釈など絶対に考えていません。
単に金(しかも月数千円程度)を出し惜しんでいるだけです。
思想も無ければ羞恥心も無い。
恥を知れ。
日本国憲法26条第2項。
保護者は子供に教育を受けさせなければならない。
そして当たり前の事として。
親は子供を育てなければならない。
子供の教育に対して義務を負い、責任がある人間が、どうして子供の食事代を払おうとしないのか。
お前らは憲法的にも法律的にも道徳的にも反している。
あまりにも無責任すぎる。
冒頭の繰り返しになりますが。
いつから日本はこんな馬鹿共が闊歩する国になってしまったんだろう。
給食費を払えるのに払わないというのは、子供の教育を放棄しているとしか思えない。
そんなに給食費払いたくねーなら子供なんか作んなボケ!
子供は親の姿を見て育つと言いますが。
子供にどのツラ下げて教育を施しているか、是非見てみたいですね。
(DQNはしつけも出来ねーかな。。。)
ほんとそうだよ、これは酷い。
日本はいつからこんな馬鹿が闊歩するようになった?
恥を知れ。
今も昔も生活苦しい家族はいるし、そういうのなら情状酌量の余地があるというものだが。
これについては同情の余地が無いね。ただのアホです。
とはいえ、給食費を払わないバカ親を不幸にも持ってしまった子供に対して給食を差し止めるのはナンセンス。
それこそいじめの原因だし、親のバカさ加減の責任を子供が負うなどというのは馬鹿げてる。
この給食費問題。「うだうだ言ってねーで払えボケ」というのが良識ある人間の意見だとは思いますが。
実はそう簡単に話はいきません。
1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。日本国憲法第26条です。
2.すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第2項によれば、
・親は子供に教育を受けさせる義務を負う。
・義務教育は基本的にタダである。
とあります。
つまり、私立とか行かなければ小中学校はタダで行けるはずだという事が憲法レベルで規定されていると言うことです。
ここで問題が生じるのが、給食って教育?という疑問です。
教育基本法においては給食に関する記述は見当たりませんでした。
しかし学校給食法にはそれらしき記載があります。
第二条 学校給食については、義務教育諸学校における教育の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。太字の強調を見ると、給食は教育の一部かなあ、とも思えます。
一 日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養うこと。
二 学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと。
三 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること。
四 食糧の生産、配分及び消費について、正しい理解に導くこと。
しかし、同じく教育基本法にはこうもあります。
第六条 学校給食の実施に必要な施設及び設備に要する経費並びに学校給食の運営に要する経費のうち政令で定めるものは、義務教育諸学校の設置者の負担とする。政令、即ち学校給食法施行例によれば、
2 前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費(以下「学校給食費」という。)は、学校給食を受ける児童又は生徒の学校教育法第二十二条第一項 に規定する保護者の負担とする。
第二条 学校給食の運営に要する経費のうち、法第六条第一項 の規定に基づき義務教育諸学校の設置者が負担する経費は、次に掲げる経費とする。大まかにまとめて言うと。
一 義務教育諸学校において学校給食に従事する職員(学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)第二十八条 (同法第四十条 及び第七十六条 で準用する場合を含む。)又は第五十一条の八 の規定により義務教育諸学校に置かれる職員をいう。)に要する給与その他の人件費。ただし、市町村立の学校にあつては、市町村立学校職員給与負担法 (昭和二十三年法律第百三十五号)第一条 の規定により都道府県の負担とされる経費を除く。
二 学校給食の実施に必要な施設及び設備の修繕費
・給食のための設備費や職員の人件費は、学校側が負担
・それ以外の経費については保護者負担
となりますね。
法体系の基本から言って、憲法と言う最高法規に反する法律や政令は意味を成さないので、給食が教育であると判断されれば、給食費も当然無償となります。
それ故給食費を巡る議論も盛んに行われているようです。
現状では給食費の解釈は未決着なので、払うことが前提です。
となれば、どうやって給食に掛かる経費をかき集めるか。
もし給食が教育であるとすれば、給食費は税金(地方税?)で賄われるでしょうね。
子供のいない人から徴収するのは文句が出そうですが・・・
逆に給食が教育ではないと判断された場合若しくは現状。
この場合は、何が何でも保護者から取り立てる。地の果てまで負う。逃がさない。
毎月の給食費、というカタチだと取り立ての回数も非常に多いので、逃げられる確率が高くなります。
年1回。或いは学校に就学する期間の合計金額を、まとめて徴収。
かなり額は大きいのですが、逆に奨学金制度やローンも使いやすくなりますかね。
そして学校側は経費の詳細とともに、余剰金額を卒業時に返還、というスタイル。
転校とかすると面倒ですが・・・
最悪の手段は告訴です。
最悪と言うのは、それが子供のいじめの原因どころか社会的なダメージがかなり大きいと言うことです。
しかし、現状では給食費未納は立派な法律違反です。
支払能力があるにも関わらず未納の場合は、告訴、そして資産差し押さえでも、致し方ない。
払えるのに出し渋った馬鹿な親の事などどーだっていいのですが、子供が傷つくのは嫌ですね・・・
もっとも、こんな対策案考えること自体、極めて馬鹿馬鹿しいのですが。
さて。
ここまで読んでみて、
「なーんだ義務教育タダなんだから給食費だってタダに決まってんだろ払わねーぞ、給食止めたら憲法違反だって訴えてやるからな」
と言う感じの意見を持った馬鹿者は日本から出て行きなさい。
まず断言します。
給食費を払わないボケ共は法解釈など絶対に考えていません。
単に金(しかも月数千円程度)を出し惜しんでいるだけです。
思想も無ければ羞恥心も無い。
恥を知れ。
日本国憲法26条第2項。
保護者は子供に教育を受けさせなければならない。
そして当たり前の事として。
親は子供を育てなければならない。
子供の教育に対して義務を負い、責任がある人間が、どうして子供の食事代を払おうとしないのか。
お前らは憲法的にも法律的にも道徳的にも反している。
あまりにも無責任すぎる。
冒頭の繰り返しになりますが。
いつから日本はこんな馬鹿共が闊歩する国になってしまったんだろう。
給食費を払えるのに払わないというのは、子供の教育を放棄しているとしか思えない。
そんなに給食費払いたくねーなら子供なんか作んなボケ!
子供は親の姿を見て育つと言いますが。
子供にどのツラ下げて教育を施しているか、是非見てみたいですね。
(DQNはしつけも出来ねーかな。。。)
木と森と ― 2006年09月27日 21時35分39秒
昨今の凶悪犯罪の増加とともに、死刑執行がニュースになることも多くなってきました。
死刑、それは、他の刑罰とは明らかに一線を画するもの。
全ての人が縁遠いことが望ましいのですが、そうも言ってられない状況。
考えなければいけない局面。
小林薫は死刑とかより懲役300年ぐらいにしておいた方が良いと思う。 (国民宿舎はらぺこ 大浴場)からのtb。
死刑。
予備知識としてWikipediaなどで調べてみると良いかもしれません。ただ、内容が内容だけに、見たくない人は見ない方が良いでしょう。
画像はもちろんありませんが、結構怖くなる内容です。
まず、日本はもちろんのこと死刑という制度があります。アメリカ(一部の州除く)もそうだし、アジア諸国、アフリカの国々などでもあります。
ヨーロッパは基本的に死刑制度は廃止されたようです。
なお、中国は死刑執行数がとても多い国です(人口も多いですが)。台湾も多く、シンガポールは麻薬絡みで死刑執行があり、それでオーストラリアとの国際問題に発展しました。
まあ、この辺は深く触れません。
死刑執行の方法は様々ですが、日本は絞首刑です。
詳細は・・・ウィキ見てください。強いて挙げられるポイントは、窒息じゃなく頚椎損傷だという主張です。つまり、一撃で気を失うから苦しみはあまり無い、という人道的配慮、だという事です。
この「人道的」という言葉が、死刑の是非において重要なキーワードになります。
さて。
日本のおける死刑執行がニュースを騒がせています。
記憶に新しいのは宅間。次いでヤギ。一番新しいのがtb先記事にもある奈良女児誘拐殺人。これは永山基準に縛られない判決でした。
多いですね。
そして、死刑と言うと出てくるのが自称人権派弁護士で死刑反対の方々。
山口県光市母子殺害事件において、死刑反対派の安田弁護士が無罪を主張。
(それ自体は本人の主義だから言うのはタダですが、裁判フケたりするのは如何か)
裁判が高裁に差し戻されました。
山口県光市の例のように、そもそも死刑と言う制度自体に疑問を抱く人もいるわけですが・・・
共通するのが「死刑は非人道的である」という主張です。
個人的には、その意見もまあ分からなくも無いです。
現に死刑制度を廃止している国もあります。その代替刑として終身刑があります。
「無期懲役」と「終身刑」の違いにご注意を。
死刑は非人道的であるのか。
人の命を奪うことはもちろん、良くないことです。
言うなれば、死刑は(戦時中でもなければ)合法的に人を殺す行為です。
それは単純に―――悲しいことです。
ではその代わりとして終身刑、二度と塀の外に出られない懲役刑はどうかというと、これも非人道的だと言う意見もあります。
その場合の最高刑は無期懲役になるのでしょうが・・・
死刑と終身刑のどちらが人道的かというのは、その受刑者によっても変わるでしょうね。死にたい人と死にたくない人がいるから。
ここから私の意見ですが。
死刑に限らず、罪を犯したものに対する刑罰の意味を考えなければなりません。
例えば軽微な犯罪などでは短期間の懲役や罰金刑になります。罪が重くなれば罰も重くなります。
その罰は―――何のためにあるのか。
これは犯罪を犯した人間に対するペナルティであると同時に更生の機会を与えることでもあります。
しかし、死刑及び終身刑は性格が異なります。
何故なら、その受刑者は二度と社会復帰することはありません。
ヤな言い方すれば、生きて塀の外には出られません。
受刑者の更生を考えていません。別の言い方をすれば、死刑及び終身刑と言うのは受刑者のために行うものではない、という事です。
では何のために行うかと言えば、犯罪被害者の為のみならず、社会のためです。
それは一般予防論的(類似犯罪抑止)な効果もさることながら、社会的な不安の予防でもあると思います。
死刑を求刑される様な重犯罪者を社会復帰させれば、世間は必ず再犯に脅える事になります。
「あんなとんでもない犯罪者はまた犯罪を犯すだろう」という見方を必ずしますし、実際にそうなる可能性も高いでしょう。だからこそ死刑を求刑されているとも思いますが。
死刑相当の重犯罪者は、もはや社会に存在することを許されない、という社会の総意があるように思います。
口には出さずとも、ほとんどの人がそう思うのではないかと。
それを防ぐための、完全なる社会との隔絶、その為の死刑或いは終身刑だと思います。
そして、非常に悲しむべきことではありますが、それを否定する程の要件は浮かびません。
こういうテーマに「アポトーシス」なんて言葉を使うのは限りなくナンセンスではありますが、該当者の行く末だけは近いかもしれません。
ここまで言う事の前提として、警察の捜査が限りなく完璧に近く、限りなく高確率、100%に限りなく近く、その被疑者が犯人であることが求められます。警察に頑張ってもらうしかありません。
その要件を満たし、死刑が求刑され、法務大臣が赤鉛筆でサインをし、死刑が確定したら、
私は思います。
本来ならば斯様な形で人命が失われるのは悲しいことだ
だが、その罪は―――もはや絶対に許されない
だから
社会のために死んでくれ
―――と。
今回はかなり重たいテーマで、書くとだんだんブルーになってきます。
しかし、tb先のような刑罰の軽重の問題もあり、避けては通れません。といいつつ法の問題には触れてないけど・・・
死刑廃止は世界的にも論調が大きいものです。
日本の弁護士の意見も確かに分かります。
でもね。
死刑廃止を訴えるよりも死刑になるような重大犯罪をどうやって抑止するかと言うことの方が何万倍も重要 だと思うし、それを弁護士の口から言って欲しかったな。
がっかりだよ。
死刑、それは、他の刑罰とは明らかに一線を画するもの。
全ての人が縁遠いことが望ましいのですが、そうも言ってられない状況。
考えなければいけない局面。
小林薫は死刑とかより懲役300年ぐらいにしておいた方が良いと思う。 (国民宿舎はらぺこ 大浴場)からのtb。
死刑。
予備知識としてWikipediaなどで調べてみると良いかもしれません。ただ、内容が内容だけに、見たくない人は見ない方が良いでしょう。
画像はもちろんありませんが、結構怖くなる内容です。
まず、日本はもちろんのこと死刑という制度があります。アメリカ(一部の州除く)もそうだし、アジア諸国、アフリカの国々などでもあります。
ヨーロッパは基本的に死刑制度は廃止されたようです。
なお、中国は死刑執行数がとても多い国です(人口も多いですが)。台湾も多く、シンガポールは麻薬絡みで死刑執行があり、それでオーストラリアとの国際問題に発展しました。
まあ、この辺は深く触れません。
死刑執行の方法は様々ですが、日本は絞首刑です。
詳細は・・・ウィキ見てください。強いて挙げられるポイントは、窒息じゃなく頚椎損傷だという主張です。つまり、一撃で気を失うから苦しみはあまり無い、という人道的配慮、だという事です。
この「人道的」という言葉が、死刑の是非において重要なキーワードになります。
さて。
日本のおける死刑執行がニュースを騒がせています。
記憶に新しいのは宅間。次いでヤギ。一番新しいのがtb先記事にもある奈良女児誘拐殺人。これは永山基準に縛られない判決でした。
多いですね。
そして、死刑と言うと出てくるのが自称人権派弁護士で死刑反対の方々。
山口県光市母子殺害事件において、死刑反対派の安田弁護士が無罪を主張。
(それ自体は本人の主義だから言うのはタダですが、裁判フケたりするのは如何か)
裁判が高裁に差し戻されました。
山口県光市の例のように、そもそも死刑と言う制度自体に疑問を抱く人もいるわけですが・・・
共通するのが「死刑は非人道的である」という主張です。
個人的には、その意見もまあ分からなくも無いです。
現に死刑制度を廃止している国もあります。その代替刑として終身刑があります。
「無期懲役」と「終身刑」の違いにご注意を。
死刑は非人道的であるのか。
人の命を奪うことはもちろん、良くないことです。
言うなれば、死刑は(戦時中でもなければ)合法的に人を殺す行為です。
それは単純に―――悲しいことです。
ではその代わりとして終身刑、二度と塀の外に出られない懲役刑はどうかというと、これも非人道的だと言う意見もあります。
その場合の最高刑は無期懲役になるのでしょうが・・・
死刑と終身刑のどちらが人道的かというのは、その受刑者によっても変わるでしょうね。死にたい人と死にたくない人がいるから。
ここから私の意見ですが。
死刑に限らず、罪を犯したものに対する刑罰の意味を考えなければなりません。
例えば軽微な犯罪などでは短期間の懲役や罰金刑になります。罪が重くなれば罰も重くなります。
その罰は―――何のためにあるのか。
これは犯罪を犯した人間に対するペナルティであると同時に更生の機会を与えることでもあります。
しかし、死刑及び終身刑は性格が異なります。
何故なら、その受刑者は二度と社会復帰することはありません。
ヤな言い方すれば、生きて塀の外には出られません。
受刑者の更生を考えていません。別の言い方をすれば、死刑及び終身刑と言うのは受刑者のために行うものではない、という事です。
では何のために行うかと言えば、犯罪被害者の為のみならず、社会のためです。
それは一般予防論的(類似犯罪抑止)な効果もさることながら、社会的な不安の予防でもあると思います。
死刑を求刑される様な重犯罪者を社会復帰させれば、世間は必ず再犯に脅える事になります。
「あんなとんでもない犯罪者はまた犯罪を犯すだろう」という見方を必ずしますし、実際にそうなる可能性も高いでしょう。だからこそ死刑を求刑されているとも思いますが。
死刑相当の重犯罪者は、もはや社会に存在することを許されない、という社会の総意があるように思います。
口には出さずとも、ほとんどの人がそう思うのではないかと。
それを防ぐための、完全なる社会との隔絶、その為の死刑或いは終身刑だと思います。
そして、非常に悲しむべきことではありますが、それを否定する程の要件は浮かびません。
こういうテーマに「アポトーシス」なんて言葉を使うのは限りなくナンセンスではありますが、該当者の行く末だけは近いかもしれません。
ここまで言う事の前提として、警察の捜査が限りなく完璧に近く、限りなく高確率、100%に限りなく近く、その被疑者が犯人であることが求められます。警察に頑張ってもらうしかありません。
その要件を満たし、死刑が求刑され、法務大臣が赤鉛筆でサインをし、死刑が確定したら、
私は思います。
本来ならば斯様な形で人命が失われるのは悲しいことだ
だが、その罪は―――もはや絶対に許されない
だから
社会のために死んでくれ
―――と。
今回はかなり重たいテーマで、書くとだんだんブルーになってきます。
しかし、tb先のような刑罰の軽重の問題もあり、避けては通れません。といいつつ法の問題には触れてないけど・・・
死刑廃止は世界的にも論調が大きいものです。
日本の弁護士の意見も確かに分かります。
でもね。
死刑廃止を訴えるよりも死刑になるような重大犯罪をどうやって抑止するかと言うことの方が何万倍も重要 だと思うし、それを弁護士の口から言って欲しかったな。
がっかりだよ。
君が代が国歌じゃないとか誰が言っているのかしら? ― 2006年09月21日 22時56分01秒
国旗掲揚時、都教委の教職員への起立強制は違憲…地裁
(by 読売新聞さま)
まーたイタい揉め事を・・・
とはいえ、裁判所の判断も理解は出来ます。
ポイントは2つ。
(最初の引用は、一瞬ジョークかと思いましたよw)
憲法の解釈として、確かに信仰や思想の自由はあるので判断としては毅然として法解釈を全うしたという印象です。
もっとも、信仰や思想は自由でもそれを実行に移していいとは誰も言ってないのですが。
と揚げ足取りは置いといて。
今回の判決において、慰謝料なんぞ払ってやる必要あんのか、というのも疑問ですが。
一番怖いのは、こういった連中が自分の生徒に自分勝手な思想をバラまくことです。
判決にもあるように、妨害はアウト。ちょっと前にも式を妨害しようとしたアホ教師が怒られてましたね。
自分が立たないのは別にいいので、自分の信念を勝手に貫いていてくださいな、と思います。
それで八分られても知りませんけど。
君が代や日の丸が軍国主義の象徴だとか、そんな事は勝手に思ってりゃいいのですが。
そういう思想を持った人間が教師であることは嫌ですね。
特に、そういう教職員団体の一味だと言うことが公にならずに、知らず知らずそういう人間に学んでいるのは問題があるかと思います。
教師の方で、君が代や日の丸が嫌いだという方は、是非ともそのことを正々堂々とアピールしてください。
日の丸嫌いバッチでも付けといてくださいな。そうすればそういったイタい方を回避できますから。
学ぶ側にも教師を選ぶ権利があります。
2006.09.22 追記
あのイタい人たち、一般企業に照らすととんでもないことだ。
「手前の指図は受けねえよ!」
と社長に向かって吼えるようなもんだ。
自分が人事関係だったら、間違いなくそいつは採用しない。
というわけで、日の丸が嫌いな教師の方々は、是非とも校長先生の前で吼えてください。
逆に、学校側は採用の際に契約書など取り交わしてはいかがでしょうか。
服務規程違反は毅然として処分する、と。
一般企業じゃ当たり前の事なのに、学校の閉鎖性が違った意味で問題ですね。
まーたイタい揉め事を・・・
とはいえ、裁判所の判断も理解は出来ます。
ポイントは2つ。
通達や都教委の指導は、教育の自主性を侵害する上、一方的な理論や観念を生徒に教え込むよう教職員に強制するに等しい
生徒が日本人としての自覚を養い、将来、国際社会で信頼されるために、国旗国歌を尊重する態度を育てることは重要で、式典で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることは有意義」と認め、「教職員は国旗掲揚、国歌斉唱に関する指導を行う義務を負い、妨害行為や生徒に起立などの拒否をあおることは許されない」とした。やるんならテメー1人でやってろ、という事だね!w
(最初の引用は、一瞬ジョークかと思いましたよw)
憲法の解釈として、確かに信仰や思想の自由はあるので判断としては毅然として法解釈を全うしたという印象です。
もっとも、信仰や思想は自由でもそれを実行に移していいとは誰も言ってないのですが。
と揚げ足取りは置いといて。
今回の判決において、慰謝料なんぞ払ってやる必要あんのか、というのも疑問ですが。
一番怖いのは、こういった連中が自分の生徒に自分勝手な思想をバラまくことです。
判決にもあるように、妨害はアウト。ちょっと前にも式を妨害しようとしたアホ教師が怒られてましたね。
自分が立たないのは別にいいので、自分の信念を勝手に貫いていてくださいな、と思います。
それで八分られても知りませんけど。
君が代や日の丸が軍国主義の象徴だとか、そんな事は勝手に思ってりゃいいのですが。
そういう思想を持った人間が教師であることは嫌ですね。
特に、そういう教職員団体の一味だと言うことが公にならずに、知らず知らずそういう人間に学んでいるのは問題があるかと思います。
教師の方で、君が代や日の丸が嫌いだという方は、是非ともそのことを正々堂々とアピールしてください。
日の丸嫌いバッチでも付けといてくださいな。そうすればそういったイタい方を回避できますから。
学ぶ側にも教師を選ぶ権利があります。
2006.09.22 追記
あのイタい人たち、一般企業に照らすととんでもないことだ。
「手前の指図は受けねえよ!」
と社長に向かって吼えるようなもんだ。
自分が人事関係だったら、間違いなくそいつは採用しない。
というわけで、日の丸が嫌いな教師の方々は、是非とも校長先生の前で吼えてください。
逆に、学校側は採用の際に契約書など取り交わしてはいかがでしょうか。
服務規程違反は毅然として処分する、と。
一般企業じゃ当たり前の事なのに、学校の閉鎖性が違った意味で問題ですね。
障害者教育 ― 2006年09月18日 13時37分53秒
渡辺純くん問題メモ(国民宿舎はらぺこ 大浴場)からのtb。
”障害者”という言葉自体がきちんと認識されていない事が問題だと思う。
障害といっても、機能的なものもあれば知的なもの、精神的なものと、類型は様々。
それらも”障害者”という言葉で一括りにされてしまう。いかんわ。
何故なら、障害を持った方々への教育の場、というものを考えた場合、その障害の種類に応じて要求事項はまるっきり違う。
ただし、ハード面であればクリアすることは簡単だし、実際十分に考えられているだろう。
問題はソフトである。
養護学校という形式ならば、そこに集まる教員というのはプロであるが、生徒同士での障害の度合いによるいじめは確実に発生している。
普通学級にソフト面を求めるなんてのは、更に無理だ。
児童、生徒、学生は、ハンディキャップを持った人間に対して適切な気配りが出来るほど頭は良くない。
中にはいい人もいるけど。
社会のルールすら怪しいのだから、そこまで求めるのは無理だ、情けないことに。
ましてtb先のケースのように、普通学級での学習を希望する場合はソフトハード両面の問題が生じる。
親御さんの気持ちも分からなくは無いが、自分の行為があまりにもハイリスクであるということは覚悟するべきだ。
水分補給という行為、あえて医療行為であると言ってしまうが、それが命に関わるという。
そして当事者児童は8歳。
周りの児童がイタズラ半分に水飲ませて事故が起きるというリスクは考えられないだろうか。
自分だったらそのリスクを考えて、適切な教育の場を探すだろう。混沌とした普通学級なんぞに任せておけない。
自分の子供を普通の子供と同じ学校に行かせたいという気持ちは、理解は出来る。
だが、障害を持ってしまった事実を受け入れていくことも、親子ともどもに必要ではないか、とも言っておく。
さてこのような問題が起こることの根底には、障害者に対する偏見差別不理解がある。
不躾な例だが、車椅子に乗って体が(特に顔が)麻痺している方を見たとき、おそらく大半の人が「この人は知的障害がある」と判断してしまうのではないか。
もちろん、麻痺症状と知的障害は別物である。
しかし多くの人が無意識に障害者を同じカテゴリにくくってしまうために、そう言った偏見が起こる。
これはもう、教育の問題だろう。
障害者というものを直視せずに隠し続けたからこういう結果になった。
子供のころに教えるべきだった。だからいい大人が下らない偏見に囚われている。
街で障害を持った人を見かけたら、是非とも子供に教えてあげて欲しい。
障害を持った人は困っているかもしれないから、手を差し伸べてあげましょう、と。
でも、同じ人間だと。
障害者の中には、そういう事を親切の押し売りだと嫌う人もいるが、折角手を貸してくれるのなら、十二分に利用すべきだろう。
言葉悪いけど。
少なくとも自分は素直に好意を受ける。
まあ、それも障害が無いことへの羨望に取れなくも無いので、手を貸す側は、親切の押し売りにならないように、さりげなくやってほしい。
ま、ちょっと気を利かせればいいだけの話だ。難しくは無い。
障害というものは、現状として差別を伴う。
それは社会が未成熟であることの証拠だ。
この差別と向き合っていくこと、特にソフト面をどうクリアしていくか、ということが大きな課題だろう。
障害者にとって苦痛なのは、障害だけではなく、そこから生じる差別も大きい。
差別問題は障害に限らず、根付いている。
まずは、そのことを真っ直ぐ見据えることから。話はそれから。
問題がきちんと捉えられれば、障害によって差別される事も無くなるし、差別という言葉をいいように使って甘い汁を吸う事も無くなるだろう。
”障害者”という言葉自体がきちんと認識されていない事が問題だと思う。
障害といっても、機能的なものもあれば知的なもの、精神的なものと、類型は様々。
それらも”障害者”という言葉で一括りにされてしまう。いかんわ。
何故なら、障害を持った方々への教育の場、というものを考えた場合、その障害の種類に応じて要求事項はまるっきり違う。
ただし、ハード面であればクリアすることは簡単だし、実際十分に考えられているだろう。
問題はソフトである。
養護学校という形式ならば、そこに集まる教員というのはプロであるが、生徒同士での障害の度合いによるいじめは確実に発生している。
普通学級にソフト面を求めるなんてのは、更に無理だ。
児童、生徒、学生は、ハンディキャップを持った人間に対して適切な気配りが出来るほど頭は良くない。
中にはいい人もいるけど。
社会のルールすら怪しいのだから、そこまで求めるのは無理だ、情けないことに。
ましてtb先のケースのように、普通学級での学習を希望する場合はソフトハード両面の問題が生じる。
親御さんの気持ちも分からなくは無いが、自分の行為があまりにもハイリスクであるということは覚悟するべきだ。
水分補給という行為、あえて医療行為であると言ってしまうが、それが命に関わるという。
そして当事者児童は8歳。
周りの児童がイタズラ半分に水飲ませて事故が起きるというリスクは考えられないだろうか。
自分だったらそのリスクを考えて、適切な教育の場を探すだろう。混沌とした普通学級なんぞに任せておけない。
自分の子供を普通の子供と同じ学校に行かせたいという気持ちは、理解は出来る。
だが、障害を持ってしまった事実を受け入れていくことも、親子ともどもに必要ではないか、とも言っておく。
さてこのような問題が起こることの根底には、障害者に対する偏見差別不理解がある。
不躾な例だが、車椅子に乗って体が(特に顔が)麻痺している方を見たとき、おそらく大半の人が「この人は知的障害がある」と判断してしまうのではないか。
もちろん、麻痺症状と知的障害は別物である。
しかし多くの人が無意識に障害者を同じカテゴリにくくってしまうために、そう言った偏見が起こる。
これはもう、教育の問題だろう。
障害者というものを直視せずに隠し続けたからこういう結果になった。
子供のころに教えるべきだった。だからいい大人が下らない偏見に囚われている。
街で障害を持った人を見かけたら、是非とも子供に教えてあげて欲しい。
障害を持った人は困っているかもしれないから、手を差し伸べてあげましょう、と。
でも、同じ人間だと。
障害者の中には、そういう事を親切の押し売りだと嫌う人もいるが、折角手を貸してくれるのなら、十二分に利用すべきだろう。
言葉悪いけど。
少なくとも自分は素直に好意を受ける。
まあ、それも障害が無いことへの羨望に取れなくも無いので、手を貸す側は、親切の押し売りにならないように、さりげなくやってほしい。
ま、ちょっと気を利かせればいいだけの話だ。難しくは無い。
障害というものは、現状として差別を伴う。
それは社会が未成熟であることの証拠だ。
この差別と向き合っていくこと、特にソフト面をどうクリアしていくか、ということが大きな課題だろう。
障害者にとって苦痛なのは、障害だけではなく、そこから生じる差別も大きい。
差別問題は障害に限らず、根付いている。
まずは、そのことを真っ直ぐ見据えることから。話はそれから。
問題がきちんと捉えられれば、障害によって差別される事も無くなるし、差別という言葉をいいように使って甘い汁を吸う事も無くなるだろう。
最近のコメント