オキドキ、パクっちゃえ!2006年06月17日 14時13分44秒

あかんがな。
橙範囲かよ。


画家の和田氏がスギ氏の作品を盗作したという、極めてどうでもいいニュースが流れてから数週間。
著作権、というか”模倣”と”盗用”の問題について一考。

まず、芸術と言うのは模倣から始まる事を忘れてはいけない。
何かに感銘を受け、それをモチーフとして自分なりのカタチにするのが芸術であり、無から生み出すと言うのはあまり無い。全く無いとは言わない。
多分、最初のアートというのは自然をモチーフにしたもので、悪く言えば自然にあるものをパクったと言える。
和歌の世界には本歌取りという言葉があり、模倣と言うものを条件付で認めている。
芸術の世界においては、模倣は至極当たり前に存在するものである、ということが分かる。

では、”模倣”、”アレンジ”と”盗作”、”パクり”の境界線はどこにあるのだろうか。
法的根拠はおいといて、個人的に重要だと思うキーワードは2つ。

即ち「敬意(=respect)」と「洗練(=refine)」である。

そもそも本歌取りとか模倣とかアレンジとか、そういったものにはオリジナルの作者に対する敬意が必ずある。
またアレンジというのはオリジナルに敬意を払いつつ自分の思い描くように昇華、洗練する行為だと思う。
他人がどうこうではなく、自分が作品をより良くしようという気が無ければアレンジの意味は無い。

産業界でも同じ事が言える。
ある技術について特許が発生している場合、その技術を使う時にはライセンス料を支払う。
これはここでも書いているように、開発者にとっては次の開発をするための資金回収以上の意味があり、それを使用する側にはその技術開発への敬意を表すための対価であると思う。

”模倣”には”敬意”と”洗練”。
必ずワンセットでなければならない。それが最低限度のマナーというものだ。
模倣をするなら作者に敬意を表し、さらに高めようとする姿勢。それがあってこそ今の技術や芸術と言うのは進化してきたのだと思う。

文化をパクった挙句に起源は自分のところだなどと世迷言を吐いているようでは、敬意も感じられないし、そこから先に洗練させようと言う気も見られない。
そんな事言っている間は決して評価もされないし、そこから伸びる事も無い。

もっと自分を磨け。