あなたの「いい音楽」は何ですか?2007年04月09日 22時32分12秒

音楽について語ると言う事で、先手必勝w
シリーズ◇音楽について思うこと。 国民宿舎はらぺこ 大浴場さま)へtb!


4番目の題目についての私なりの考え方です。



曰く。

音楽作品の良し悪しの基準は聴き手個人の価値観の問題であって、音楽自体に絶対的な優劣があるわけではないとする考え方がある。それはどこまで真実なのか?
これは私の持論そのものであり、場合によっては名指しなのかも知れないと内心ヒヤヒヤw

まず最初に私の音楽に対する持論を述べますと。

個人が音楽に対して言えるのは、「好き」か「嫌い」かだけである

というものです。
音楽作品に対していろいろな人が、この曲はいい、この曲は良くない、といったように評価を下していきます。
それは千差万別なものであり、それが元で喧嘩になったり議論がヒートアップしたり、もっと悪いときには荒らし行為に発展したりします。
何故このように、同じ音楽に対してこうも評価がバラバラになってしまうのか?

その答えを出す前に、ちょっと遊んでみましょう。
下の画像を見てください。赤っぽいのとちょっとピンクっぽい2色です。

どっちが胸キュン?

さて、どっちが赤いですか?

多分多くの人が左側の方が赤いと答えるでしょう。



じゃあ。
どっちがいい色ですか?

今度は自分の中で思い思いの考えを巡らせ、どちらかを指差すでしょう。
では。
自分の考え方が普遍的なものだと断言できますか?それを説明できますか?

誰も説明出来ません。

この2つの質問のポイント、「赤い」事と「いい」事。
両者の決定的な違い。
明確な判断基準が確立されているか否か

「赤い」事はRGBの値で決められている事です。
対して「いい」かどうかについては、万人共通の判断基準は存在しないのでどちらが「いい」かは一義的には決められず、個人個人でバラバラの結果となります。
そもそも「いい」「悪い」が何を言いたいのかも明確に説明できないですし。



それを踏まえて聞いてみます。

J.S.Bachの「トッカータとフーガ」。
オレンジレンジの「ロコローション」。

どっちが「いい曲」ですか?



結果は言うに及ばず、ですね。


このように音楽作品に対して「いい」か「悪い」かというものは、明確な判断基準が存在し得ないがゆえに結論付けられません。

もっとも、それが全てのパラメータというわけではありません。
音楽的に「正しいか」「間違ってるか」という事は判断する事が可能です。
「音楽的に正しい事=音楽理論に適合している事=楽典に従っている」と言えるでしょう。突っ込みヨロ。
となれば、音楽理論が花開いた時代の曲であれば、厳格なまでに理論通りの音楽であり、「音楽的に正しい」と言えるでしょう。

しかし「音楽的に正しい=いい」という事は言えません

こう考えると、普段我々が「この曲はいい」「この曲は良くない」と言っているのは、個人的な判断基準によるものでしかない、という事になります。
私はその判断基準を「好き」「嫌い」という言葉で置き換えています。


さてここで改めて最初の問題提議に答えます。

・音楽作品の良し悪しの基準は聴き手個人の価値観の問題か?

その通り。
良し悪し―――「いい」か「悪い」か、というパラメータは、そもそもそれ自体が個人的な判断基準によるものである。よって結果も個人的なもの、個人的な価値観にしか成り得ない。
(ただし「音楽的に正しいか否か」のような、普遍的な判断基準が確立されれば話は別)


・音楽自体に絶対的な優劣があるわけではないか?

分からない。
そもそも音楽の優劣と言うのはどのような判断基準なのかが明確ではない。
明確ではない、万人に同意が得られていない基準では、一義的な判断は出来ない。


何故同じ音楽作品に対する評価がバラバラになってしまうのか?

みんながみんな勝手な(=個人的な)判断基準でしか評価できないから。

ってとこで。
補則すれば、明確な判断基準足りうるためには、普遍性に加えて定量性が必要かと思います。
簡単に言うと、例えば「この曲は100点満点で○○点」という判断が出来る事。さらにはいつ誰が評価しても同じ結果が出るような再現性も必要です。
評価の相関性も必要ですし・・・バリデーションでもしないといけないですかねw
逆の視点から見れば、そういった要求事項を満たせない判断基準は、所詮個人的な価値観に過ぎないと言う事です。

さらに補足すると、音楽作品に対する評価は個人の価値観から脱せないのかというと、「絶対ではない」です。
前述の通り、万人が同意しうる普遍的な判断基準が示されれば可能です。
ただ実際問題としてそんな判断基準が確立とは到底思えないのもまた然り。



前カラムで「音楽作品に対して個人が下す「いい」「悪い」という評価は、個人的な価値観に他ならない」と出ました。
これについては、反論の余地がないというよりは、実際問題としてそう考えざるを得ない、という方がいいでしょう。
少なくとも「日本の」音楽シーンは、これを否定したら成り立たないからです。

仮に、音楽作品に対する評価が万人共通の基準によって評価されているとしましょうか。
ということは、その時々に売られている作品の中で、一番「いい」ものがおのずと決まります。
CDの値段と言うのはほとんど一律です。

値段は一緒で順位付けが明確に決まっている。
となれば、その時一番いい作品だけが売れて、他のものは売れないという話になってしまいます。
でも実際はそうじゃない
みんなが「いい」と思う作品が適度にバラけているからです。
それにもし、音楽作品に対する評価が一義的に決まるならば、音楽と言う分野は進化を止めてしまったと同じ事です。



ここで断っておきます。
音楽作品に対する評価は個人の価値観によってバラバラではありますが、音楽作品をより「いい」ものにしようとする事が無意味だとは言いません

確かに。
価値観なんてのは個人でバラバラです。評価もまたバラバラです。聴き手としては
しかし作り手としては、それでも自分の作品をより良くしていくものです。誰だってそうでしょう。
どうやって「良く」していくかはまたバラバラですが、それを「どうせ個人の価値観がバラバラなんだから」といって止めてしまうのは、自分の音楽の進化を止めてしまっている事です。

はっきり言って、永久に答えは出ません。
それでも、上を目指して行かないといけない。それを止めてしまったらそれ以上の進化は無いから。
極まる事の無い終着点に向かっていく事。
それに悲観して作品造りを止めてしまうのは、悲しい事だけど否定はしません。
しかし同時に、永久に究極を追い求める事が、その分野の進化のドライビングフォースであるとも言っておきましょう。

諦めたらそこで演奏終了ですよ?



もう一つ。

「音楽作品の評価は個人の価値観」ではありますが、
評価は価値観の問題だから話し合ってもしょうがない」と考えてしまうのもまた違う。

評価と言うか価値観全般の問題ですが。
価値観なんてのは、とてもいい加減で流動的です。
環境やそのとき得た情報、果てはその日の気分でどうとでも変化します。

もちろん。
他の価値観を知ったときにも、変化します

他の人と音楽に対する話をして、同じ作品に対する評価を聞いてみること、或いは自分の知らない作品を教えてもらう事、そうする事で自分の音楽に対する価値観は常に流動的に変化していきます。
それは、他人の価値観を知る事により、自分の価値観の幅が広がると言う事です。
そうやって「楽しみ」を増やしていく事
これも音楽に対するあり方の一つだと思います。

クラシックこそ本物で他は邪道、と言って憚らない人も、例えばロックなんかを聴いてみると、新しい世界が開けます。
もちろん聴いても変わらない人もいますが、それもそれで価値観です。否定はしません。

大事なのは他人の価値観を無下に否定しない事。これは音楽に限らず食い物の味でもそうですが。
否定をせず、聞く事。その上で自分が思ったことを確かめればいい。
議論自体は構わないけど、自分の価値観の決め付けや押し付けを前提としたものは、敢えてそれを楽しんでいる以外は、意味が薄いでしょうね。
その人がいいと思えるならば、クラシックでもロックでも演歌でもアニソンでもラップでも、何でも本物です。

音楽作品に貴賤無し。



総括。

音楽作品に対して、個人で評価出来るのは個人の価値観内にしかならない。

個人的な価値観の問題なので、自分が気に入った音楽作品について、周りの評価がどうあれ、自分の一番大事にすべきである。
もっとも他人の下す評価を聞く事も重要であり、それを持って更なる自己の価値観の向上につなげる姿勢も大事である。

価値観の問題なので、音楽作品に対する評価が分かれたとしても、それを無意味に否定する事は望ましくない。議論によって価値観の共有から止揚へとつなげる方が望ましい。


というところです。
この他にも、コマーシャルによる誘導とかコミュニティ内の価値観の方向性の整列力なんかも関係するのですが、ややこしいのでいずれ。
ただこの段階で少しだけ触れると、音楽作品に対する考え方と言うのは、音楽外の価値観によっても多大な影響を受けてしまう、と言う事が言えます。だからこそ総合的な価値観の問題になってくるのですが・・・

ご意見お待ちしております。