障害者教育2006年09月18日 13時37分53秒

渡辺純くん問題メモ国民宿舎はらぺこ 大浴場)からのtb。

”障害者”という言葉自体がきちんと認識されていない事が問題だと思う。
障害といっても、機能的なものもあれば知的なもの、精神的なものと、類型は様々。
それらも”障害者”という言葉で一括りにされてしまう。いかんわ。

何故なら、障害を持った方々への教育の場、というものを考えた場合、その障害の種類に応じて要求事項はまるっきり違う。
ただし、ハード面であればクリアすることは簡単だし、実際十分に考えられているだろう。

問題はソフトである。

養護学校という形式ならば、そこに集まる教員というのはプロであるが、生徒同士での障害の度合いによるいじめは確実に発生している。
普通学級にソフト面を求めるなんてのは、更に無理だ。
児童、生徒、学生は、ハンディキャップを持った人間に対して適切な気配りが出来るほど頭は良くない。
中にはいい人もいるけど。
社会のルールすら怪しいのだから、そこまで求めるのは無理だ、情けないことに。

ましてtb先のケースのように、普通学級での学習を希望する場合はソフトハード両面の問題が生じる。
親御さんの気持ちも分からなくは無いが、自分の行為があまりにもハイリスクであるということは覚悟するべきだ。
水分補給という行為、あえて医療行為であると言ってしまうが、それが命に関わるという。
そして当事者児童は8歳。
周りの児童がイタズラ半分に水飲ませて事故が起きるというリスクは考えられないだろうか。
自分だったらそのリスクを考えて、適切な教育の場を探すだろう。混沌とした普通学級なんぞに任せておけない。

自分の子供を普通の子供と同じ学校に行かせたいという気持ちは、理解は出来る。
だが、障害を持ってしまった事実を受け入れていくことも、親子ともどもに必要ではないか、とも言っておく。



さてこのような問題が起こることの根底には、障害者に対する偏見差別不理解がある。

不躾な例だが、車椅子に乗って体が(特に顔が)麻痺している方を見たとき、おそらく大半の人が「この人は知的障害がある」と判断してしまうのではないか。
もちろん、麻痺症状と知的障害は別物である。
しかし多くの人が無意識に障害者を同じカテゴリにくくってしまうために、そう言った偏見が起こる。

これはもう、教育の問題だろう。
障害者というものを直視せずに隠し続けたからこういう結果になった。
子供のころに教えるべきだった。だからいい大人が下らない偏見に囚われている。

街で障害を持った人を見かけたら、是非とも子供に教えてあげて欲しい。
障害を持った人は困っているかもしれないから、手を差し伸べてあげましょう、と。
でも、同じ人間だと。

障害者の中には、そういう事を親切の押し売りだと嫌う人もいるが、折角手を貸してくれるのなら、十二分に利用すべきだろう。
言葉悪いけど。
少なくとも自分は素直に好意を受ける。
まあ、それも障害が無いことへの羨望に取れなくも無いので、手を貸す側は、親切の押し売りにならないように、さりげなくやってほしい。
ま、ちょっと気を利かせればいいだけの話だ。難しくは無い。



障害というものは、現状として差別を伴う。
それは社会が未成熟であることの証拠だ。
この差別と向き合っていくこと、特にソフト面をどうクリアしていくか、ということが大きな課題だろう。

障害者にとって苦痛なのは、障害だけではなく、そこから生じる差別も大きい。
差別問題は障害に限らず、根付いている。

まずは、そのことを真っ直ぐ見据えることから。話はそれから。

問題がきちんと捉えられれば、障害によって差別される事も無くなるし、差別という言葉をいいように使って甘い汁を吸う事も無くなるだろう。